平城京から長岡京、そして平安京へ─桓武天皇による二度の遷都

794年の平安京遷都は日本史上最も有名な遷都の一つですが10年前の784年、桓武天皇は長岡京へ遷都しています。これは失敗や迷いではなく桓武天皇が直面していた複雑な政治的課題とそれを解決し「新しい日本」を創るための強固な意志の表れでした。平城京から長岡京そして平安京への遷都は桓武天皇の壮大な挑戦でした。

桓武天皇の前の天皇光仁天皇とは何した人?いつから即位?エピソード、家系図などわかりやすく

奈良時代の末期、称徳天皇と道鏡による激動の時代が終わった後、皇位に就いたのが光仁天皇です。即位時の年齢は62歳と異例の高齢であり、しかもその出自は天智天皇の皇子・施基親王(志貴皇子(しきのみこ))の子、いわゆる「天智系」の血統でした。壬申の乱以降、約100年にわたり天武天皇系が皇統を独占してきましたが、光仁天皇の即位はその均衡を大きく覆し、後の平安時代への道を開く転換点となりました。光仁天皇の治世は派手さに欠ける「中継ぎの天皇」と評されがちですが、皇后廃后事件や度重なる天変地異といった波乱があり、また財政再建や蝦夷政策の見直しなど、後代につながる重要な施策も行われました。

平安時代いつからいつまで?平安時代の年表、歴史、出来事のまとめ簡単に

平安時代は、桓武天皇時代の西暦794年の平安京への遷都から1185年の平氏滅亡まで、または1192年の鎌倉幕府成立までの約390年間続いた時代をいいます。政治の側面からは、・皇統争いの勃発や平安仏教の基盤が築かれた前期・藤原氏による摂関政治が行われた中期・上皇が専制を行う院政が行われた後期と大きく3つに分けられ、文化面においては、仮名文学、仏教では天台宗、真言宗、浄土信仰が生まれ、日本の風土や生活に根差した国風文化が大きく発展しました。

元明天皇、元正天皇が治めた和銅時代、霊亀時代、養老時代の出来事

壬申の乱に勝利した天武天皇は、自身の皇子たちに同じ思いをさせないよう親から子への皇位継承方針を定め、壁皇子を選ぶと、それ以外の皇子には草壁皇子に協力し、お互い助け合って争わないよう誓いを立てさせました。しかし、草壁皇子は天武天皇崩御後の喪中に薨去したため、天武天皇の皇后であった鸕野讚良は、草壁皇子の子である軽皇子へ皇位継承させるため、自らが軽皇子への橋渡しのために天皇に即位。皇子は持統天皇から譲位を受け文武天皇として即位するものの慶雲4年6月15日、25歳で崩御します。文武天皇の皇位継承予定者であった首皇子は、まだ7歳で即位させるには無理な年齢でした。即位の適齢期まで文武天皇の生母であり草壁皇子の正妃であった阿閇皇女が、姉の持統天皇に倣い、橋渡しの即位。これにより慶雲4年7月17日、第43代元明天皇が誕生し、第44代元正天皇が譲位する養老8年2月4日までの約17年間、二代二人の女帝による聖武天皇への橋渡しが行われました。

橘奈良麻呂の乱とは?橘奈良麻呂の変わかりやすく.藤原仲麻呂との関係、死後になぜ太政大臣になったのかなど

橘奈良麻呂の乱(橘奈良麻呂の変)とは、756年に橘奈良麻呂が藤原仲麻呂を滅ぼし孝謙天皇を退位させて新たに別の皇族から天皇を立てようとした反乱をいいます。計画段階で情報が漏洩したことで実行できなかったクーデター未遂事件でした。クーデターは実現しなかったものの多くの皇族や貴族が処罰を受けることとなり、獄死や遠流、官職を外されるといった朝廷に大きな影響をもたらせた事件でした。この事件の背景にあったのは、橘奈良麻呂が抱いた聖武天皇から譲位を受け即位した孝謙天皇や光明皇太后を後ろ盾として台頭する藤原仲麻呂への危機感でした。命を狙われた藤原仲麻呂にとっては権力掌握の面で有利に働いた事件となったのでした。

玄昉の色恋・ロマンス 歴史に残る宮中の噂

奈良時代中期、橘諸兄政権のブレインの一役を担った玄昉(げんぼう)。遣唐使に随行し、唐で20年に渡り、7世紀初めに生まれたインド思想がもとになった仏教宗派の法相(ほっそう)を学んだ僧でした。735年に唐から帰国する際に多くの書物や仏像などを持ち帰りました。唐での活躍や貴重なものを持ち帰ったことで、奈良時代の封禄制度下で高級貴族にのみ与えられた特別給与にあたる封戸(ふこ)を、僧の立場で与えられるほどでした。737年、玄昉は聖武天皇の母である藤原宮子の病気を回復させるために、内裏(皇居)に仏像を安置し、仏教行事を行う建物である内道場に入りました。宮子の寝所で祈祷を行うことで、宮子の病状は回復し、これまで対面することができなかった聖武天皇との対面も実現させました。それを評価され、玄昉は僧官職の上級職の僧正(そうじょう)に任じられます。そして母を回復させたことで、聖武天皇からも寵愛されるようになり、政治にも口出しするようになりました。同年、国内に蔓延した天然痘により、当時の政治を担っていた藤原四子(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)をはじめ、ほとんどの公卿が病没します。生き残った橘諸兄は、太政官の立て直しのため聖武天皇により大納言に、翌年には右大臣に任じられます。この橘諸兄政権において、玄昉は吉備真備(きびまきび)とともに側近として重用されました。ともに唐に遣唐使として留学した実績を持ち能力も高かったことや、聖武天皇や光明皇后など、皇族からの寵愛を受けていたためでした。僧として異例の出世をした玄昉でしたが、宮中での男女の色恋にまつわる噂があったと云われています。その相手と云われるのが、聖武天皇の母である藤原宮子と皇后の光明皇后でした。

藤原広嗣の乱とは?なぜ?その理由、玄昉・吉備真備との人間関係、広嗣の怨霊、エピソードなどわかりやすく解説

藤原広嗣の乱とは、740年に藤原広嗣(ふじわらひろつぐ)が九州で挙兵した内乱をいいます。わずか2ヶ月で鎮圧された乱でしたが、壬申の乱以降の朝廷内で起こったはじめての反乱となる事件でした。その背景には、藤原不比等が築いた藤原氏の権力や地位が、天然痘の蔓延による不比等の子どもたちの病没により、大きく崩れ変容していったことがあげられます。孫である藤原広嗣はその変化の中に置かれた藤原氏の一人として、橘諸兄政権に抗い、そして滅ぼされてしまったのです。