邪馬台国の場所 九州説、畿内説(奈良)のそれぞれ
邪馬台国(やまたいこく)は、弥生時代である紀元3~4世紀ごろに、日本列島の「どこか」にあったとされている国です。
邪馬台国のあった場所は、日本史最大のミステリー、謎です。様々な資料や遺跡の発掘成果から、その概要は少しずつ判明しつつありますが、まだ多くの謎が残されています。
ここでは、邪馬台国の位置について、どのような意見が出ているのかを説明します。
魏志倭人伝
邪馬台国がどのような国であったのかを、最もよく記載しているのは、古代中国王朝「魏(ぎ)」の歴史書である『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』です。
西暦280年ごろに、中国の歴史家である陳寿(ちんじゅ)が書いた『三国志』という歴史書の中の一部分が、通称として『魏志倭人伝』と呼ばれています。
つまり、明確に魏志倭人伝というタイトルの書物が作られた訳ではなく、三国志の中の『魏書(ぎしょ)』という書物内の、倭人(古代日本人)について触れている箇所を、現代の歴史家が分かりやすく『魏志倭人伝』と呼んでいるのです。
魏志倭人伝の中には、陳寿が伝聞で聞いたことをつなぎ合わせたと思われる箇所も多いため、比較的大ざっぱな記述も幾つかあります。そのため、その解釈をめぐる論争が現在でも続いているのです。
魏志倭人伝中の記載
まずは、魏志倭人伝の文中から、邪馬台国の位置について書いていると思われる場所を見ていきます。
「從郡至倭 循海岸水行 歴韓国 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里」
訳:郡から倭に到着するには、海岸に沿って船で進み、韓国を通って南へ行ったり東へ行ったりして、倭の北岸の狗邪韓(くなかん)国に到着する。七千余里。
※郡とは、朝鮮半島にあった魏の出張所である帯方郡だとみられる
「始度一海 千餘里 至對海國」
訳:始めて海を渡り、千余里で対海国に着く。
「又南渡一海 千餘里 名日瀚海 至一大國」
訳:さらに、南へ海を渡る。千余里。名は瀚海(かんかい)という大きな国に着く。
「又渡一海 千餘里 至末盧國」
訳:さらに海を一つ渡る。千余里。末盧(まつら)国に至る。
「東南陸行 五百里 到伊都國(中略)丗有王 皆統屬女王國」
訳:前の国から東南に、歩いて五百里行くと、伊都(いと)国に着く(中略)代々王がいるが、女王の国に従っている。
「東南至奴国 百里 」
訳:東南に進み、奴国に着く。百里。
「東行至不彌國 百里」
訳:前の国から東に行き、不弥国に着く。百里。
「南至投馬國 水行二十日」
訳:前の国から南へ行くと、投馬国に着く。船で進んで20日。
「南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月 可七萬餘戸」
訳:前の国から南に行くと、邪馬台国に着く。船で10日、歩いてひと月。家は7万戸以上ある。」
邪馬台国の場所論争
上記のように、魏志倭人伝には、中国の使者が朝鮮半島を経由して邪馬台国にたどり着くまでの道のりが記されています。
しかし、つじつまが合わない箇所があるため、邪馬台国の場所は未だに特定されていません。多くの学者の間で、ここではないか、という論争が繰り広げられています。
あまり有名でない民間の研究者が唱えている説も含めると、邪馬台国の推定地は100か所以上もあると言われています。
それらの中で、有力な候補となっている場所は、おおまかに二つの地域が挙げられます。それは九州と奈良です。
九州説
現在の九州地方北部を中心とする地域に、邪馬台国があったとする説です。
「九州にあった」といっても、さらに具体的にどこにあったのか?という話になると、実は研究者によって意見がバラバラです。福岡だとする人もいれば、熊本だと主張する人もおり、沢山の説が挙げられています。しかし、そのうち有力なものは、ほんの幾つかに限られます。
古い説では、地名の音感が似ている、という単純な理由で、福岡県山門(やまと)郡または熊本県菊池郡山門だとする説が多かったのですが、あまりにも科学的根拠に欠ける説であるため、支持者は減っているようです。
近年では、より複数の状況証拠から場所を推測するという、科学的な方法を使った主張が増えてきています。
昭和後期に活躍した高校教員・歴史研究家の古田武彦は、魏志倭人伝の一文字一文字の意味や成り立ちをつぶさに調べあげ、それらの中国での使い方を根拠として、「邪馬台国は福岡県の博多湾沿岸にあった」と主張しました。
また、心理学者・古代史研究者の安本美典は、コンピュータを使用して地名の残存度を計算し、さらに天皇の在位期間を統計学的な方法で推測した結果、「邪馬台国は福岡県旧甘木市周辺にあった」とする説を発表したのです。
細かい場所については一本化できていない九州説ですが、多くの研究者の間で「だいたいの範囲は福岡県・佐賀県または熊本県北部」とする方向でまとまっています。
その根拠は次の通りです。
・中国大陸に近い。距離が近ければ近いほど、人の往来が偶然接触し、交易に発展する可能性が高まる。
・九州北部には、佐賀県神埼郡の吉野ヶ里遺跡・福岡県朝倉市の平塚川添遺跡など、弥生時代のものとみられる大規模な遺跡があり、それらから出土した棺の一部は、魏志倭人伝に書かれている棺と特徴が似ている。
・魏志倭人伝内の「水路を二十日」や「水路を十日、陸路を一月」という表現は、朝鮮半島南端付近からの合計の距離であると考えることができる。
・魏志倭人伝の原文に記されている道のりと、現在まで残っている地理的な位置関係などをヒントに照合した結果、伊都国、奴国、不弥国あたりまでは、現在の対馬や壱岐、博多湾沿岸にあっただろうという見解で、ほとんどの研究者が一致している。その延長として、邪馬台国も九州にあったと推定できる。
・人口に関する研究において、縄文時代後期から弥生時代にかけて、九州北部の人口が有明海沿岸・筑後川流域に集中していた事が分っている。また上述の原文のように、邪馬台国には「可七萬餘戸(家は7万戸以上ある)」と記載されていた。「戸」は一軒のことで、その中に数世代のひと家族、つまり5-8くらいが住んでいたと仮定すると、総人口は35万人以上となる。よって、この大人口を擁する邪馬台国が、この付近に存在した可能性が高い。
畿内(奈良)説
現在の奈良県を中心とする地域に、邪馬台国があったとする説です。
研究者によっては、奈良周辺の大阪府・京都府・滋賀県・和歌山県付近にあった可能性(畿内説)を示唆する人もいますが、5世紀以降での奈良地方での存在が確定している大和朝廷との関連性を考慮して、奈良県内にあったとする主張が優勢です。
その根拠は次の通りです。
・現在、天理市の黒塚古墳など奈良地方の遺跡で見つかった銅鏡の枚数を合計すると、九州北部で発見されている枚数よりも多い。魏志倭人伝には、女王に銅鏡を百枚送ったと書かれている。銅鏡の出土量が多い地域の方が、より大きな国(=邪馬台国)が存在した可能性が高い。
・奈良県桜井市の纏向(まきむく)遺跡内で見つかった箸墓古墳は、3世紀ごろに建てられたとみられ、同じ時期の古墳では群を抜いて大きいので、卑弥呼の墓と仮定することができる。
・魏志倭人伝の記述の一部を誤りとみなし、水路を「南に二十日」の部分を「東に二十日」に訂正すると、ちょうど瀬戸内海を通り奈良に達するような経路とになり、つじつまが合う。
・「ヤマタイ」と「ヤマト」という言葉は発音が似ているため、奈良に存在した邪馬台国が、4世紀以降に大和朝廷に発展したと考えることができる。
邪馬台国の場所 様々な論証
魏志倭人伝の記述には、多くの問題点があります。魏の帯方郡を起点として、邪馬台国に到着するまでの方角と進み方を記録しているのですが、距離の数値(単位:里)と掛かる日数がまぜこぜに記されているのです。
現在まで残っている地名などをヒントに、だいたい不弥国あたりまでは、現在の対馬や壱岐、博多湾沿岸にあっただろう、と考えられています。
しかし不弥国から後の投馬国・邪馬台国までへの道のりが、なぜか距離ではなく方位と日数だけで記されているのです。
不弥国からは、「南へいけば投馬国。船で20日。・・・さらに南へいけば邪馬台国。・・・船で10日、 歩いてひと月。」と記されていますが、この『船で10日、歩いてひと月』をどう解釈するかで、邪馬台国の位置は全く変わってしまいます。
具体的には、「船で10日、『または』歩いてひと月」と読むか、「船で10日進んで、『さらに』ひと月歩く」 と読むかの2通りの解釈です。
また、常識的に考えて、不弥国から船で30日以上も南へ進めば、鹿児島県を通りすぎて南の海上へ出てしまい、歩く場所が無くなってしまいます。そのため、方角の記載が間違っていると考え、これを「東へいけば投馬国。船で20日。さらに東へいけば邪馬台国。・・・船で10日、 歩いてひと月」に直せば、距離的に、またその他の状況証拠も多い奈良説の根拠になります。
ただ、当時の使者の進む速度が、極端にゆっくりだったと仮定すると、方角を修正しなくても済むので、九州説の根拠となります。
まとめ
九州説と奈良説、どちらもそれなりの根拠がありますが、現状では九州説がやや優勢と見られています。
この2説以外は、補完する根拠が少なすぎて、学会ではほぼ相手にされていません。
いずれにしても、確実な結論を出すためには、今後発掘調査などによる新たな発見が必要でしょう。