春日大社の見どころ 悠久の歴史を刻む春日大社と春日山原始林
「あをによし ならのみやこの咲く花の 薫ふがごとく 今盛りなり」(万葉集 小野老 おののおおい)
あをによしとは青丹よしと書き、天平の甍と形容される青(深緑)の屋根と丹(朱色)の柱が織りなす平城京の美しさを表しています。
飛鳥時代、奈良時代を経て約200年の長きに渡り、都として栄えた古都奈良。
その奈良に在って1300年以上の歴史を刻み続ける春日大社は平城京の守護神を祀る神社として創建されました。
春日大社の背後にそびえる春日山は、若草山、御蓋山(みかさやま)、高円山(たかまどやま)の連なりを総称した呼び名で、和歌にも詠まれるなど親しまれておりますが古来より神山として崇められ、その一帯に広がる春日山原始林は神域として1000年以上もの間、狩猟と伐採が禁じられたため原始の姿を今に留めています。
市街地に隣接して原生林が残っているその希少性から大正13年(1924年)に天然記念物に、昭和30年(1955年)に特別天然記念物に指定されました。
そして平成10年(1998年)には東大寺、興福寺などとともに春日山原始林と春日大社は古都奈良の文化遺産として世界遺産に登録されました。
春日山の緑に抱れた鮮やかな朱塗りの社と無数の灯籠、神の使いとされる鹿たちが佇む悠然なる春日大社。
その歴史は、大化の改新の功労者で天智天皇(てんじてんのう/てんぢてんのう)より藤原の姓を賜った中臣鎌足(なかとみのかまたり)が藤原氏の始祖となり、息子の藤原不比等(ふじわらのふひと)が中臣氏の氏神である武甕槌命(タケミカヅチノミコト)を国家守護のため御蓋山に祀ったことに始まります。
春日大社 御由緒
元明天皇(げんめいてんのう)の御代、藤原京から平城京に遷都した同和3年(710年)、右大臣であった藤原不比等が国の繁栄と国民の安寧を願い、藤原氏の氏神である常陸国(現在の茨城県)の鹿島神宮に祀られている武甕槌命を古来より神山として崇められていた御蓋山に遷し、祀りました。
その後不比等の孫であり左大臣となった藤原永手(ふじわらのながて)が、神護景雲2年(768年)称徳天皇(しょうとくてんのう)の勅命により現在の地に社殿を造営しました。
その際、武甕槌命と対となる神で下総国(現在の千葉県)にある香取神宮の御祭神である経津主命(フツヌシノミコト)、藤原氏の祖とされる天児屋根命(アマノコヤネノミコト)、その妻である比売神(ヒメガミ)の三柱の神を新たに遷座申し上げ、四柱の神を春日大明神と総称し祀りました。
藤原氏の隆盛に伴い春日大社は規模を拡大し、貴族や公家を中心に信仰は広がり庶民には「春日さん」の名で親しまれ続け、現代に至るまでの間に全国に1000社を超える春日神社が建てられています。
それらの総本社として春日大社は人々の生活を見守り続けています。
春日大社 御祭神
春日大社の御祭神は武甕槌命、経津主命、天児屋根命、比売神の四柱の神様です。
武甕槌命と経津主命は伊邪那岐命(イザナギノミコト)と伊邪那美命(イザナミノミコト)による神産みによって現れた神様です。
天児屋根命は天照大神の岩戸隠れの神話に登場し、日本書紀には「神事をつかさどる宗源者なり」と記されており中臣氏の祖であるとして、天児屋根命の妻である比売神とともに祀られております。
春日大明神と称される四柱の神々
春日大社の本殿は四棟建てられており、四柱の神様をそれぞれ独立した形でお祀りしております。
第一殿には雷を神格化し武を司る武甕槌命、第二殿には刀剣に宿るとされ、刀で物を切る時のフツという音を神格化した経津主命が祀られており、どちらも伊邪那岐命と伊邪那美命が日本列島となる島々を生んだ国産みによって国土を固めたのちに行った神産みによって生まれた神さまです。
伊邪那美命が火の神である加具土命(カグツチノミコト)を産んだ際、大火傷を負って亡くなってしまいます。
最愛の妻の死を嘆き悲しんだ夫の伊邪那岐命は怒りのあまり、携えていた天之尾羽張(アメノオホバリ)の剣で加具土命を斬り殺します。
剣から滴る加具土命の血液から武甕槌命が、滴った血が固まり岩となったものからは経津主命が生まれました。
この二柱の神様はそれぞれ常陸国(現在の茨城県)の鹿島神宮と下総国(現在の千葉県)の香取神宮に祀られておりますが同じ火の神から生まれた兄弟神ともいえ、対とみなされているなど繋がりの深い神様で、天照大神をはじめとする高天原の神々が地上を治めていた大国主命(オオクニヌシノミコト)にその支配権を譲るよう迫った国譲りの神話にも登場します。
使者として送り込まれた武甕槌命は、地上の覇者である大国主命と堂々と議論を交わし、国譲りの事業を開始しました。大国主命の長男の事代主命(コトシロヌシノミコト)は国譲りに同意しましたが、最後まで頑強に抵抗した次男の建御名方神(タケミナカタノミコト)に対しては武力行使を行い、猛々しい強さで打ち負かし国譲りの事業は無事成功をおさめました。
武甕槌命の尽力により地上は平定され高天原の神が降り立つ天孫降臨へとつながります。
第三殿の御祭神、天児屋根命は天照大神が天岩戸にお隠れになった際、天照大神を讃える祝詞を唱えた神様です。
天照大神は弟神である素盞嗚尊の高天原での暴挙に心を痛め、天岩戸にお隠れになると世界は暗黒の闇に包まれ災いが相次ぎました。
天岩戸から天照大神を誘い出すべく、八百万の神々は儀式を取り行います。
天児屋根命の祝詞を始めに、天鈿女命(アメノウズメノミコト)が妖艶な舞を舞うと神々は笑い騒ぎました。
何事と問う天照大神に、天鈿女命は答えます。
「あなたより貴い神様が現れたので、皆喜んでいるのです。」
天照大神が外の様子を伺おうと岩戸を開けたところへ天児屋根命と太玉命(フトダマノミコト)が八咫の鏡を差し出します。
興味を引かれた天照大神が更に岩戸を開いた瞬間、天手力男神(アメノタヂカラオ)が天照大神の手を引き外へお連れし世界に光が戻りました。
岩戸隠れで功績をあげた天児屋根命はその後、天孫降臨の際に天照大神の孫である邇邇芸命(ニニギノミコト)に随伴して地上に降り立ち中臣氏の祖となったと伝わっています。
第四殿に祀られている比売神は天児屋根命の妻とされておりますが、比売神とは一般には祭神の妻や娘を表しています。春日大社の比売神については詳細は不明ですが中臣氏の祖をお支えになられた母なる女神であることに間違いはありません。
藤原不比等が平城京守護のため御蓋山に武甕槌命を祀り50年程経った頃、平城京は度重なる不運に見舞われます。
長屋王の変といった政変、長雨や洪水などの天変地異により、都が荒れたためわずかな期間ではありますが都が平城京から他の地域に移され、また戻るなどの社会不安がありました。これを鎮めるべく朝廷は神の神威にすがり天皇の勅命をもって現在の地に社殿を造営し武甕槌命と藤原氏に所縁のある神様を勧請したのです。
その後国の中心が、平城京から京都長岡京、平安京と遷都がなされていきますが春日大社の神々は人々から厚い信仰を受け続け現在に至ります。
春日大社のご利益と若宮十五社巡り
武甕槌命と経津主命が武を司ることから、武芸上達、鎮護国家、厄除けの御神徳を授かることができ、遠く常陸国から大和まで無事にいらしたことに因み、交通安全のご利益があることが知られております。
春日大社には、御祭神の血縁者であったりなど所縁のある神様や、その土地の神を祀る摂社と末社が61社あり、なかでも天児屋根命の御子神を祀る若宮神社にはじまる若宮十五社は人生の様々な困難を乗り越える力を授けてくたさる神様がそれぞれ祀られており、それらを巡拝する若宮十五社巡りは人気の参拝コースとなっております。
特に春日大社の末社となる夫婦大國社(めおとだいこくしゃ)は大國主命と妻の須勢理姫命(スセリビメノミコト)が祀られており日本で唯一夫婦神の神社であり、参拝すれば縁結び、良縁祈願、夫婦円満のご利益があるとして、春日大社を参詣することで授かれるご御神徳の筆頭格になっております。
伝承にみえる春日大社と藤原氏の繁栄の歴史
四柱の神が合祀され現在の地に社殿が造営された768年から数えて2018年で創建1250年を迎える春日大社。
藤原氏の氏神が祀られた春日大社を語る上で、藤原氏の歴史を語らないわけにはいきません。
藤原氏はもとは中臣氏と称し、天児屋根命の子孫として朝廷の祭事を忌部氏(いんべうじ)とともに行う神官の一族でした。そして、中臣鎌足が大化改新で功績をあげ、天智天皇より藤原の姓を賜ると、鎌足直系の子孫は藤原氏を名乗ることが許されました。
鎌足の活躍により、神官としての中臣氏と優秀な政治手腕をもつ藤原氏という二面性を有した中臣氏は朝廷の祭事一切を取り仕切るようになります。
神官の一族でありながら優れた政治手腕を持つ中臣鎌足があらわれ、大化改新で功績をあげ、藤原氏を名乗ることとなった息子や孫も政治家として地位を固めたのです。
それは当時の関東開拓の重要拠点であった鹿島神宮と香取神宮の祭事を担うことを意味し、中臣氏の勢力圏が遠く関東にまで及ぶ事を示すともに、皇室の祖である天照大神に仕えた鹿島神宮の御祭神である武甕槌命を一族を守護する氏神と崇めることで、藤原氏が天皇に仕えることの神性と正当性を示すことにもなりました。
鎌足の息子の不比等は司法、立法、行政を司る最高機関である太政官と朝廷祭事を執り行う神祇官が二大頂点とする官僚体制である、大宝律令を整えます。
太政官に籍を置く藤原氏と、神事を行う同族の中臣が神祇官を牛耳ることで政治の中枢を固め、以後1200年以上もの永きに渡り藤原氏は繁栄を極めました。
鎌倉時代に制作された華麗なる絵巻、春日権現験記(かすがごんげんげんき)には藤原氏の一門である人物達が登場し、春日神の御神徳と霊験を授かり繁栄したという内容の説話の数々が描かれています。
この春日権現験記は藤原氏北家の一門である西園寺公衡(さいおんじきんひら)が一族繁栄を願って奉納した絵巻で、鎌倉時代後期の宮廷画家である高階隆兼(たかしなのたかかね)によって挿絵が描かれております。
全20巻から成り、当時の生活様式や風俗を知ることのできる貴重な資料であるうえに美術的価値も高く大和絵の最高峰とされています。
また、春日大社には藤原氏の繁栄を予言した伝承も残されております。
国譲りの大事業を終えた武甕槌命は心安らかに鎮まることのできる地を求めておられました。
そして、中臣時風(なかとみのときふう)と中臣秀行(なかとみのひでつら)という2人の兄弟の神官を伴い、神使である白い鹿に乗り、柿の枝を鞭にして遥か大和の地を目指して旅立たれました。
途中伊賀国の一ノ瀬川で休息をしていた時のこと、武甕槌命は2人に焼き栗を一つずつ与え、「その栗を土に植え、芽が出たならばそなたたちの子孫は永く繁栄するであろう」とおっしゃられました。
2人は早速地面に焼き栗を植えると、なんと地中から芽が出たのです。
そして長い旅路の末に武甕槌命は御蓋山の山頂、浮雲峰(うきぐものみね)に降り立ちお鎮まりになられました。
この有難い霊験に因み、中臣殖栗連(なかとみのえぐりのむらじ)という称号を賜った2人の子孫は栄え、代々春日大社の神主を世襲することとなり現在も藤原氏の子孫が神主をお務めになっています。
藤原氏は不比等以降、四家に枝分かれしそこから更に多くの氏族が誕生しました。春日大社はその藤原氏一門による崇拝と保護を受けて隆盛し、現在まで1300年の時を刻み続けているのです。
春日曼荼羅にみる御仏と春日神の結びつき
仏教と神道の神とが結びつく神仏習合の考え方に本地垂迹説(ほんちすいじゃくせつ)というものがあります。
天照大神の真の御姿は大日如来、または十一面観音とされるように仏教の仏様が日本古来の神様の御姿で現れ、衆生の願いを聞き届け守護してくださるという考え方で、春日大社はその本地垂迹説に基づき神仏習合の動きが早くから進みました。
春日大社の神が神仏習合された様子を表すのが春日曼荼羅です。
春日大社にまつわる事象を本地垂迹の考えを元に曼荼羅に表したもので、特に有名なものが春日鹿曼荼羅です。
春日神の乗り物とされる、白い鹿の背に神道の象徴である榊の枝と5体の仏様が乗って御蓋山に向かわれる様子が描かれています。
5体の仏様は、春日大社と若宮社の御祭神をそれぞれ表しております。
春日曼荼羅は社会的に神仏習合が確立する鎌倉から室町時代に盛んに作られました。
春日大社は藤原氏所縁の寺である興福寺の仏様を守護をする神社として一体化していき共に歴史を刻んできました。
この興福寺は中臣鎌足の妻が鎌足の病気平癒を祈願するために建立した寺で、春日大社の運営の実権を握っていました。
明治の神仏分離令で興福寺の規模は縮小され、春日大社とも分離させられてしまいます。
その興福寺の寺領の跡地が現在の奈良公園なのです。
神使の鹿
奈良公園を訪れると、沢山の鹿達が出迎えてくれます。
武甕槌命を乗せ、遠い鹿島の地から大和へとお連れしたのは大きな白い鹿で、その子孫が春日大社や奈良公園一帯に住んでいる鹿たちとされ、神鹿として古来より大切に保護されてきました。
奈良の鹿が如何に大切に扱われてきたかがわかる話が残されています。
春日大社に程近い興福寺菩提院の大御堂で13歳の三作という少年が習字の稽古をしていると、庭に鹿が入ってきて置いてあった三作の半紙を食べてしまいました。
鹿を追い払おうと投げた文鎮が運悪く鹿の急所に当たってしまい鹿は死んでしまいます。
神の使いである鹿を殺した者は身の丈ほどに掘った穴に罪人を入れて小石を詰めて生き埋めにする、石子詰の刑に処すという掟があり、まだ子どもである三作も例外ではなく、鹿の亡骸とともに石子詰の刑に処されてしまいました。
息子の死を悲しんだ母親は寺の梵鐘を三作の年と同じ十三回打ち、息子が埋められた場所に紅葉の木を植え菩提を弔いました。
このような悲話が残るほどに春日大社に神をお連れした鹿は神聖な生き物として手厚く扱われており、現在では国の天然記念物に指定されております。
奈良の鹿はお辞儀をして参拝客を出迎えると言われていますが、神の使いである鹿に出会えば参詣に訪れた者は貴族でさえも、必ず輿を降りてお辞儀をしていたので鹿もそれに応えるようになったそうです。
平安の正倉院
春日大社は「平安の正倉院」と呼称されるにふさわしく、国宝殿に納められている貴重な甲冑や刀剣などの武具、その他美術工芸品の多くは平安時代に奉納されたものが大多数を占めています。
楠木正成が奉納したと伝わる甲冑、黒韋威胴丸(くろかわおどしどうまる)、源義経による奉納とされる言い伝えが残る赤糸威大鎧(あかいとおどしおおよろい)はいずれも国宝に指定されており、当時の甲冑の造りを今に伝える貴重な資料でもあります。
中でも一際異彩を放つのが、国宝の金地螺鈿毛抜形太刀(きんじらでんけぬきがたたち)と呼ばれる太刀で、最近の調査で刀剣の鞘、柄やつばは純金に近い純度の金(22K〜23K)で造られたことがわかりました。
繊細な彫金と美しい螺鈿細工が施された国内最高傑作の工芸品とされており、通常は刀の装飾には金メッキを施すところをほぼ純金を使用していることからもその特異性が伺えます。
国宝、重要文化財、重要美術品に指定されているのは宝物にとどまらず、本社本殿4棟は国宝に、厳島神社、気比神宮の鳥居とならび日本三大鳥居である一の鳥居を含む本社の建造物23棟が重要文化財に指定されています。
春日大社創建に因む宝物である鹿島立御鉾(かしまだちおんほこ)と呼ばれる鉾は常陸の鹿島神宮から武甕槌命が御蓋山に旅立たれる際、お供をした中臣氏の2人の神官が携えていたものと伝わるもので現在も春日大社に所蔵されております。
藤の名所、万燈籠、荘厳なる社殿と受け継がれる祭り
春日大社の社殿は春日造と呼ばれる建築様式が用いられており、その最大の特徴は彩色され優美な曲線を描きながは外側に反る切妻造りの屋根です。
本殿は御祭神一柱につき一棟、計4棟建てられておりそれらは20年に一度、本殿の位置を変えずに建て替えを行う式年造替(しきねんぞうたい)を創建以来絶えることなく続けております。
近年では、平成27年(2015年)から平成28年(2016年)にかけて60回目の式年造替が行われ、鮮やかな朱に彩られた社殿は若々しさが保たれています。
春日大社は藤の名所とも知られており、境内の萬葉植物園には藤の園として200本もの藤が植えられています。
特に藤の花が地面に届かんばかりに咲き誇る砂ずりの藤は有名で、春日権現験記にも登場します。
春日大社の神紋であり藤原氏の家紋でもある下がり藤を彷彿とさせるその美しさは、4月下旬から5月上旬に見頃を迎えます。
参道にずらりと並ぶ石灯籠はその数約2000基に及び、本社を囲む約52mの東回廊と約81mの西回廊にぐるりと巡らされた釣燈籠は約1000基と春日大社の境内には約3000基の灯籠が並び、その数は日本一を誇り、訪れた者を圧倒します。
これらは平安時代から藤原氏をはじめとする有力者、一般庶民によって、家内安全や商売繁昌、国家安泰、武運長久などを祈願し奉納されてきたものです。
かの有名な戦国武将である、直江兼続(なおえかねつぐ)、藤堂高虎(とうどうたかとら)、宇喜多秀家(うきたひでいえ)、徳川幕府第五代将軍の徳川綱吉(とくがわつなよし)公も釣灯籠を奉納しており春日大社が時代を超えて広く信仰されてきたことがわかります。
節分の2月3日と、中元の8月14日と15日の年二回、3000基全ての灯籠に火が灯る節分万灯籠と中元万灯籠は神様に浄火を奉じて祈願をする行事です。
闇夜に灯籠の火が連なるその様子はまさに神秘そのものです。
春日大社の例祭である春日祭は嘉祥2年(849年)に始まったとされ、明治時代に毎年3月13日に行われることが定められました。
藤原氏の年長者と宮中より派遣された天皇の名代である勅使が春日大社を参詣し、国家の安泰を祈願するもので賀茂神社の葵祭、石清水八幡宮の石清水祭とともに日本三大勅祭とされております。
そしてもう一つ、春日大社を代表する祭礼が、毎年12月17日を中心に行われる春日大社若宮おん祭りです。
春日大社境内に鎮座する摂社、春日大社若宮神社の祭祀で奈良公園周辺にて数日に渡り執り行われます。
保延2年(1136年)に時の関白、藤原忠通(ふじわらのただみち)によって始められて以来800年以上もの間、一度も途絶えることなく執り行われてきました。
そのためこの際に奉納される猿楽や雅楽などは中世以前のまま現代まで継承され、その保存に大きく貢献していることから昭和54年(1979年)に国の重要無形民俗文化財に指定されました。
若宮神社のご祭神は、本殿に祀られる天児屋根命と比売神の御子神で、天押雲根命(アマノオシクモネノミコト)といいます。
平安時代中期のこと、春日大社第四殿の比売神を祀る神殿に小さな蛇のお姿で現れました。
ある時、長年に渡り降り続いた大雨と洪水により疫病が蔓延し国家は疲弊してしまいます。
水神の化身とされる蛇のお姿で現れた天押雲根命のご神威にてこれを鎮めんと、それまで母神の御殿に間借りするように祀られていた御子神様の社殿を造営し、若宮神社として御霊をお遷ししました。
そして春日野にお招きして御食(みけ)をお供えし舞や雅楽を奉じ丁重なる祭礼を執り行うようになると、長雨洪水はおさまり雲の間から太陽が顔を覗かせました。
天押雲根命のご神威により国と民が救われたことからこの祭祀は大和の国をあげての大規模なもので五穀豊穣、万民泰平を願い今日まで絶えることなく毎年盛大に執り行われています。
春日大社は奈良の市街地に隣接しているにも関わらず、春日山の自然と見事に融合しており、堂々たる南門と春日造りの社殿は威厳に満ち、鮮やかな社殿の朱の色は背後にそびえる春日山の緑に美しく映え、訪れた人々の心に平安と癒しを与えてくれます。
それは、日本神話において大国主命と話し合いによって国譲りを成功させた武甕槌命が武を司るだけでなく、調和と融合の精神をも併せ持つ神様であることを象徴するかのようです。
力だけで他を制し、支配するのではなく他者に対する尊敬の念と、知恵と忍耐をもって平和に導くことの尊さをその長い歴史を通して私たちに伝えているように思えます。