奈良時代中期の有力貴族である藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)は、藤原武智麻呂(ふじわらのむちまろ。680年~737年)の次男として藤原南家に706年に生まれました。
仲麻呂は、第40代天武天皇(てんむてんのう。~686年、在位673年~686年)の時代より藤原氏の地位を確立した藤原不比等(ふじわらのふひと。659年~720年)を祖父に持ち、父は藤原不比等の長男で南家を興した藤原武智麻呂、母は第42代文武天皇(もんむてんのう。683~707年、在位697年~707年)の時代に右大臣であった阿倍御主人(あべのみうし)の孫の阿倍貞媛(あべのさだひめ)でした。
時期は不明であるものの28歳までに貴族の一歩手前の正六位下に叙位されていましたが、734年1月に従五位下に叙爵されたことで、貴族の仲間入りを果たします。
しかし、野心家であった仲麻呂は、貴族として昇殿するようになると、やがて朝廷内での対立を招き、歴史的な大事件を引き起こしました。
藤原仲麻呂の家系
藤原仲麻呂は藤原武智麻呂の次男であり、兄弟間でのライバル争いがありました。
また、従兄弟となる不比等の孫たちも多くおり、仲麻呂政権下で公卿であった者、藤原仲麻呂の乱以降の第48代称徳天皇(しょうとくてんのう。718年~770年、在位764年~770年)や第49代光仁天皇(こうにんてんのう。709年~782年、在位770年~781年)の時代に太政官として中核メンバーとなった者など多くの有力者がいました。
藤原不比等の男系子孫は次の表のとおりです。
藤原不比等の子孫(男系) | |||
藤原不比等 | |||
↓ | |||
武智麻呂 | 房前(ふささき) | 宇合(うまかい) | 麻呂(まろ) |
↓(南家) | ↓(北家) | ↓(武家) | ↓(京家) |
豊成(とよなり) | 鳥養(とりかい) | 広嗣(ひろつぐ) | 浜成(はまなり) |
仲麻呂 | 永手(ながて) | 宿奈麻呂(すくなまろ) | 綱執(つなとり) |
乙麻呂(おとまろ) | 真楯(またて) | 清成(きよなり) | 勝人(かつひと) |
巨勢麻呂(こせまろ) | 清河(きよかわ) | 田麻呂(たまろ) | |
魚名(うおな) | 綱手(つなで) | ||
御楯(みたて) | 百川(ももかわ) | ||
楓麻呂(かえでまろ) | 蔵下麻呂(くらじまろ) |
仲麻呂には仲麻呂を含め4人兄弟であり、他に1人の妹がありました。
〇藤原豊成
仲麻呂の兄である藤原豊成は、749年に従二位・右大臣となるものの、757年の橘奈良麻呂の乱で、右大臣を罷免されます。
仲麻呂が764年に藤原仲麻呂の乱で敗死したのち右大臣として復権するものの、766年に薨去しました。
〇藤原乙麻呂
藤原乙麻呂は750年3月に大宰府の役人である太宰少弐(だざいのしょうに)に任命されるものの、同年10月に従三位に叙任され、大宰府の長官である太宰帥(だざいのそち)に任命されました。
しかし、752年には解任され、757年に従三位でありながら、従五位下相当の美作守に左遷されました。
左遷された原因は不明ですが、750年の破格の昇進で、当時大納言として政権を主導していた仲麻呂との関係が悪化した可能性が考えられています。
その後759年には、仲麻呂政権内における軍事面を担う武部卿に就任しています。
この頃に仲麻呂との関係が改善され、中央の官職に復帰されたのではないかと見られています。
〇藤原巨勢麻呂
藤原巨勢麻呂は、740年に従五位に叙爵されると、聖武天皇・孝謙天皇の時代には順調に昇進します。
758年に第47代淳仁天皇(じゅんにんてんのう。733年~765年、在位758年~764年)が即位し、仲麻呂の独裁体制が確立されると、仲麻呂政権の中核メンバーとなり、760年に従三位に昇進、762年には参議へと急速に昇進しました。
しかし、764年の藤原仲麻呂の乱にて仲麻呂側についたため、官軍により斬殺されました。
藤原四兄弟の死と台頭する橘諸兄との対立
734年、従五位下に叙爵され貴族となった藤原仲麻呂は、737年に流行した天然痘により、当時の朝廷を主導していた藤原四兄弟(父の藤原武智麻呂、叔父の藤原房前・藤原宇合・藤原麻呂)を亡くしました。
藤原四兄弟の死は早すぎたこともあり、その子たちの位階は低く、南家の豊成と仲麻呂のみが貴族として叙爵されている状況でした。
そのため、藤原四兄弟の子どもたちが権力を継承できる基盤は整っておらず、公卿の中で天然痘から生き残った光明皇后の異父兄にあたる橘諸兄(たちばなもろえ。684年~757年)が、国政を担うようになりました。
橘諸兄は天然痘が流行した737年は従三位・参議でしたが、聖武天皇(しょうむてんのう。701年~756年、在位724年~749年)による国政の立て直しのために中納言を経ずに大納言へ昇格されました。
さらに738年には正三位・右大臣へ昇格、本格的に国政を担いました。
橘諸兄政権において藤原仲麻呂は、739年に従五位上、740年には正五位上へ昇進。
741年には従四位下と昇進し、民部卿(みんぶきょう)に叙任、743年には従四位上に昇進とともに参議に叙任され、公卿の仲間入りをしました。
さらに3年後の746年には民部卿から式部卿に長官のポストが変わり、位階も従三位に昇叙しました。
式部省は、朝廷に仕える官人の人事権を担う省であり、律令制における八省の中でも中務省に次ぐ重要な省でした。
官僚の人事権を持つ式部省の長官となった藤原仲麻呂は、人事権を行使して橘諸兄周辺の人員を外す人事により橘派の勢力を削ぎ落し、藤原仲麻呂に有利な人材を周囲に集め、派閥を形成しました。
人事権を利用して権力を手にした藤原仲麻呂でしたが、叔母にあたる光明皇后(701年~760年)の信任が厚く、従姉妹である皇太子であった阿倍内親王(あべないしんのう。後の孝謙天皇、称徳天皇)とも良好な関係にあったことも影響し、748年に正三位となり、光明皇后や阿倍内親王の後ろ盾のもとで、左大臣である橘諸兄と拮抗するようになりました。
仲麻呂に対する光明皇后からの寵愛はとても深かったとされています。光明皇后が藤原氏出身という叔母と甥の血縁関係だけでなく、男女の仲に発展していたといったうわさもあります。
古代の日本では、兄弟間での色恋はあったとされ、叔母と甥といった近親間での色恋も普通にあったとされています。
孝謙天皇即位から橘奈良麻呂の乱をきっかけとした権力掌握
749年7月、聖武天皇が譲位し、阿倍内親王が第46代孝謙天皇(こうけんてんのう。718年~770年、在位749年~758年)として即位します。
この年、仲麻呂は中納言を経ずに、参議から大納言へと昇進します。
さらに、皇太后の家政機関である紫微中台(しびちゅうだい)の長官である紫微令(しびれい)と、天皇側近の警護にあたる親衛軍組織であった中衛府(ちゅうえふ)の大将も兼ねるようになり、政権と軍権の両方を掌握して、光明・仲麻呂体制が確立されていきました。
しかし当時、左大臣の橘諸兄と大納言の藤原仲麻呂の間には、右大臣で実兄の藤原豊成がいたため、橘諸兄もしくは藤原豊成のいずれかが辞任もしくは失脚しない限り、昇進は難しい状況でした。
755年、橘諸兄の家司(けいし|親王家の家事を担当する職員)であった佐味宮守(さみのみやもり)は、聖武上皇が病気で伏している際に橘諸兄が自宅での酒席において、聖武上皇に対する不敬と取られる発言や朝廷を誹謗する内容の発言をし、さらに謀反の気配もあるといった内容を聖武上皇に密告しました。
ですが、聖武上皇はこの密告を取り合いませんでした。
上皇が問題としなかったため、橘諸兄は酒席の話が密告されていたと認識していませんでした。しかし、756年2月に諸兄は密告されていたことを知り、左大臣の職を辞職し、政界から引退しました。
橘諸兄が引退した同年、聖武上皇は崩御しました。
聖武上皇は崩御前に、定まっていなかった孝謙天皇の皇位継承者に対して、遺詔を残しました。
この遺詔により、天武天皇の孫であり、新田部親王の子である道祖王(ふなどおう。~757年)が皇太子として立太子されました。
ですが、翌757年3月、聖武上皇の喪中の中で、淫らな行為に及び、勝手気ままな気持ちを持って行動することに戒める孝謙天皇の勅に改めることのない行動が問題視され、道祖王は皇太子を廃されました。
道祖王の廃太子に伴い、次の皇太子を決める会議が開かれました。
このとき、仲麻呂には、皇太子候補の選択肢に、自身が優位となる大炊王(おおいおう。後の淳仁天皇)を皇太子として孝謙天皇に宣言させる計画がありました。
皇族や太政官の公卿からは、新田部親王の子であり、道祖王の兄である塩焼王(しおやきおう)や、舎人親王の皇子である船王や池田王を推挙する声もありましたが、仲麻呂は『臣下のことを一番よく知っているのは君主である』と宣言し、孝謙天皇の意向に従うと発言しました。
孝謙天皇は、道祖王は新田部親王の子であったため、今度は舎人親王の子の中から選ぶのが適当とします。
とはいえ、舎人親王の皇子である船王は男女関係の乱れが目につき、池田王は孝行に欠け、塩焼王も聖武天皇から不興を買っていたといった理由から、対象から退けられました。
このような背景から、立太子されたのは、大炊王でした。
仲麻呂は亡くなった長男の藤原真従(ふじわらのまより)の夫人で、未亡人となっていた粟田諸姉(あわたのもろね)を大炊王の妃とさせ、藤原仲麻呂の私邸に住まわせていたので、自身に有利な皇族を皇太子にすることに成功したのでした。
757年5月、藤原仲麻呂は祖父の藤原不比等が大宝律令を改良修正していた養老律令を施行させると、大臣に準ずる地位である紫微内相(しびないしょう)に任じられました。
こうした、一連の仲麻呂の台頭に不満を持ったのが、橘諸兄の子の橘奈良麻呂(たちばなならまろ)でした。
橘奈良麻呂は官職に付いた頃より女性天皇の即位に否定的だった人物であり、聖武天皇時代より皇女の阿倍内親王が立太子されていることについて異議を持ち、天武天皇の血統を持つ別の男性皇族を立太子する考えから、何度か謀反の計画を立てていました。
しかし、相談していた者からの反対によって、都度実行に移せずにいました。
ですが、道祖王の廃太子から大炊王の立太子までの一連の流れから、橘奈良麻呂は仲麻呂を殺害して天武天皇の孫にあたる別の皇族を擁立する反乱を再度計画しました。
しかし、橘奈良麻呂が声をかけた天皇の親衛軍組織である中衛府の役人であった上道斐太都(かみつみちのひたつ)が、仲麻呂に反乱を密告したことで計画が露見してしまい、橘奈良麻呂の一味は捕らえられ、計画は失敗に終わりました。
この反乱計画に加担した皇族・貴族・官人、それらの者と連座により処罰された者は443人にものぼりました。
淳仁天皇即位から道鏡の台頭
橘奈良麻呂の乱により処罰された皇族・貴族の中には、藤原仲麻呂の政敵であった者が多くいました。
また、仲麻呂の兄で右大臣であった藤原豊成は、仲麻呂が密告を受けた後の一連の調査における不手際の責任をとらされ、右大臣を解任されました。
仲麻呂を排除しようとした奈良麻呂の計画は、仲麻呂による権力掌握の後押しをする形になり、結果的には仲麻呂への権力集中の手助けをしてしまうことになりました。
橘奈良麻呂の乱の翌年、孝謙天皇は譲位し、仲麻呂が自宅で世話していた大炊王が皇位を継承、第47代淳仁天皇が即位。
これにより、仲麻呂は淳仁天皇をコントロールし、独自で政治を行うようになりました。
大きな変化点として、官名を唐風に改称させる唐風政策があります。
758年8月25日に藤原仲麻呂により奏上され、8月28日付で改正内容により施行されました。
仲麻呂は、唐の文化や制度に対するあこがれがとても強かったとされており、中央組織の官司名や職名のうち、三等官以上の官吏につい唐風に改称しました。
唐では第9代皇帝の玄宗(げんそう)により、713年と752年に官号の改正が行われており、それに倣ったものと見られています。
官職変更例 | |||||
改称前 | 改称後 | 改称前 | 改称後 | 改称前 | 改称後 |
太政大臣 | 大師 | 左大臣 | 大傅 | 右大臣 | 大保 |
大納言 | 御史大夫 | 大将 | 大尉 | 少将 | 驍騎将軍 |
官司更例 | |||||
改称前 | 改称後 | 改称前 | 改称後 | 改称前 | 改称後 |
太政官 | 乾政官 | 紫微中台 | 坤宮官 | 中務省 | 信部省 |
式部省 | 文部省 | 治部省 | 礼部省 | 中衛府 | 鎮国衛 |
仲麻呂自身も、このタイミングで大保(右大臣)に任じられました。
恵美押勝の由来
淳仁天皇は即位後、仲麻呂に『恵美押勝(えみのおしかつ)』の名を与え、仲麻呂一家の姓には恵美(えみ)の二文字がつきました。
人民を「恵む美」が優れ、乱を防いで「押し勝つ」功績が仲麻呂にあったというところから、仲麻呂を称えた名前でした。
これは飛鳥時代に中臣氏の中で、鎌足がその生涯の活動を称えられ天智天皇より藤原姓を与えられたのと同様、仲麻呂の活動に対して与えたものでした。
以降、藤原仲麻呂は恵美押勝と名乗るようになりました。
760年1月、仲麻呂は皇族以外で初となる太政大臣(大師)に昇格しました。
大宝律令の施行後、生前で太政大臣に任命されたのは、大友皇子、高市皇子の2人の皇子だけでした。
藤原不比等のように逝去後に追贈されるケースはありましたが、皇太子クラスの皇子に与えられた官職であったため、太政大臣という立場に不相応な者をつけてしまうと大友皇子や高市皇子も同様の立場と印象付けてしまうため、高市皇子以降で太政大臣を任命するケースはありませんでした。
このように、太政大臣の官職を汚さないように任命を避けていたポストでしたが、仲麻呂の太政大臣就任の背景には、光明皇太后や孝謙上皇といった藤原氏ゆかりの皇族や、淳仁天皇からの強い信任があったといえます。
また、それまで皇太子クラスしか任じられなかった太政大臣に皇族以外の藤原氏が任命されたことは、藤原氏が強い政治的地位を確立し、皇室同等の権力や権威を持った証明だったのかもしれません。
安禄山の乱に伴う国防強化と新羅討伐への軍備
758年、渤海から帰国した小野田守(おののたもり)から、唐で755年に安禄山の乱(あんろくざんのらん)が発生し、長安の陥落、渤海が唐から援軍要請を受けたことが報告されると、仲麻呂は反乱軍が日本にも派兵してくる可能性を考慮し、大宰府や沿岸諸国の防備を厳しくするように命じました。
安禄山の乱とは、唐の節度使の安禄山とその部下の史思明(ししめい)により起こされた、唐の支配体制とその腐敗に対する反乱でした。
唐でこのような混乱がある中、759年に新羅は、日本から新羅に向かった使節団に会わないといった無礼をはたらきました。
日本は従来から新羅を属国という立場としており、属国に対して送った使節団に対し面会せずに帰路に就かせるという非礼な行為は、新羅に対しての激しい反感をうみ、仲麻呂は激しく怒り、新羅討伐を計画させるものになりました。
新羅討伐計画は、軍籍394隻、4万700人の兵士を大動員するものでしたが、760年に最大の後ろ盾であった光明皇太后が崩御したことで、孝謙上皇と淳仁天皇の関係性が悪化し、孝謙上皇と仲麻呂の関係も悪化することで、仲麻呂の地位も危うくなったため、新羅への遠征を中止し、その準備した軍事力を、孝謙上皇と対峙するために政治活用しようとしました。
藤原仲麻呂の乱
762年1月、仲麻呂は子の藤原真先(ふじわらのまさき)と新田部親王の子で臣籍降下した氷上塩焼(ひがみのしおやき)を参議に命じ権力基盤を補強するものの、6月には仲麻呂と孝謙上皇のパイプ役となっていた仲麻呂の正室であった藤原宇比良古(藤原袁比良とも)(ふじわらうひらこ/ふじわらおひらこ)を亡くします。
また、7月と9月には、仲麻呂の腹心であった参議の紀飯麻呂(きのいいまろ)と中納言の石川年足(いしかわのとしたり)も亡くしました。
石川年足は、蘇我馬子の孫で、石川氏に改姓した氏祖である蘇我連子(そがのむらじこ)のひ孫にあたる貴族で、蘇我馬子の血統を継ぐ末裔でした。
そのために、12月に自身の第3子である藤原訓儒麻呂(ふじわらのくすまろ)、第4子の藤原朝狩(ふじわらのあさかり)、娘婿で長屋王の子であった藤原弟貞(ふじわらのおとさだ)、石川年足の弟の石川豊成(いしかわのとよなり)を参議に任じました。
また、皇族の白壁王を、参議を飛ばして中納言に抜擢するなど、仲麻呂は政権の補強を行いました。
しかし、1年で複数の近親者を大納言・中納言に次ぐ要職の参議に命じたため、反対派は不満を募らせていきました。
一方、孝謙上皇は、母親の光明皇太后を亡くし病がちになっていました。
こういった孝謙上皇を看病し回復させたのが道鏡でした。
孝謙上皇は回復した後も道鏡をそばに置き、寵愛するようになりました。
これを良く思わなかった仲麻呂は、淳仁天皇を通じて、道鏡との関係を諫めました。
しかし、諫められたことに対し、孝謙上皇は激怒し、上皇は出家して尼になり、また、淳仁天皇から大事や賞罰の権限を奪うことを宣言し、政治復帰たのでした。
このことで、太政大臣であった仲麻呂は政権の蚊帳の外に置かれてしまいました。
淳仁天皇からの権限剥奪、孝謙上皇の政治復帰に危機感を感じた仲麻呂は、孝謙上皇と道鏡を排除しようと考えるようになります。
764年、仲麻呂は淳仁天皇から都督四畿内三関近江丹波播磨等国兵事使(ととくしきないさんげんおうみたんばはりまとうこくひょうじし)という武官に任命してもらうことで軍事力の掌握を図りました。
武官とは、畿内全体を統率する総指揮官であり、仲麻呂は朝廷周辺の軍事力を抑えたのでした。
仲麻呂は、都で計画されていた軍事訓練に目を付け、本来各国から20人を集めるところ、600人ずつ集めるように動員令を出し、武力を持って孝謙上皇と道鏡を排除しようと計画しました。
藤原仲麻呂に、淳仁天皇の兄弟であった船親王、池田親王は同調しました。
9月5日、仲麻呂は船親王と謀議し、現状の朝廷の欠点や非難されるべき部分について訴えました。
池田親王は兵や馬を用意し、いくさ準備を進めました。
これらの動きに対して、官僚の高丘比良麻呂(たかおかのひらまろ)は、仲麻呂の計画に連座して自身に罪がかけられることを恐れ、孝謙上皇に仲麻呂の計画を密告しました。
また仲麻呂が信頼していた大津大浦(おおつのおおうら)という陰陽師や、天武天皇のひ孫である和気王(わけおう)などからも反乱計画が孝謙上皇に伝えられ、孝謙上皇は仲麻呂の動きに対して先手を打ちました。
9月11日、孝謙上皇は少納言の山村王を淳仁天皇のいる中宮院に派遣し、淳仁天皇のもとにあるべき天皇の公印である御璽(ぎょじ)や天皇が発令する際に必要な駅鈴(駅令)を回収させました。
この動きを知った仲麻呂は、息子の藤原訓儒麻呂に山村王の帰路を襲撃させ、鈴印を奪うことに成功します。
しかし、孝謙上皇はすぐに上皇の護衛をしていた坂上苅田麻呂(さかのうえのかりたまろ)と牡鹿嶋足(おじかのしまたり)を派遣し、訓儒麻呂を射殺して奪還しました。
孝謙上皇は上皇としての立場があるにしても、御璽や駅鈴がなければ天皇としの公式の勅が出せないため、御璽と駅鈴を仲麻呂に奪われるわけにはいかず、淳仁天皇から回収し手元に持ち帰る必要があったのです。
仲麻呂に対しては、太政大臣の官職と正一位の位階、恵美姓を剥奪し一般庶民に落としたうえ全財産の没収を宣言し、反逆罪により朝敵として仲麻呂を追討する発令を出しました。
また、三関と呼ばれた伊勢国の鈴鹿関、美濃国の不破関、越前国の愛発関を封鎖する固関(こげん)する指示を出したのでした。
こうした孝謙上皇による追討の発令により、仲麻呂は平城京を脱出するしか道がなくなっていました。
孝謙上皇はさらに吉備真備を従三位に叙すると、仲麻呂誅伐を命じます。
吉備真備は仲麻呂政権下で冷遇されていましたが、遣唐使として唐に渡った際に学んできた戦術を評価されて、仲麻呂討伐の命が下されたのでした。
吉備真備は直ちに追討軍を派兵し、仲麻呂が長く国司をしていた近江国に入れないよう、橋を焼討しました。
都を脱出した仲麻呂でしたが、近江国への道を朝廷軍に抑えられていたことから、仲麻呂の八男である藤原辛加知(ふじわらのからかち)が国司を務める越前国に入り、再起を図ろうと考えます。
ですが、討伐軍を指揮した吉備真備は、越前国の藤原辛加知にこの事件が伝わる前に刺客を送り込み、藤原辛加知を誅殺したのでした。
行く手を阻まれた仲麻呂は、愛発関が固関されていたことで通れないため再度南下し、近江国高島郡の三尾埼に逃れました。
仲麻呂軍は三尾埼にあった古城に籠ると、攻め立ててくる討伐軍に対峙して応戦しましたが、討伐軍の増援が到着すると、太刀打ちできずに敗北しました。
軍として敗北した仲麻呂でしたが、最後は妻子とともに船にのり、琵琶湖の奥に逃れようとします。しかし、官兵の石村石楯に捕らえられ、斬首されてしまいました。
こうして、藤原仲麻呂の乱は失敗に終わったのでした。
仲麻呂の没落と死後の対応
藤原仲麻呂の死により、乱が終息すると、仲麻呂の勢力は一掃されます。
仲麻呂に擁立され即位した淳仁天皇は、孝謙上皇により廃位され、親王扱いで淡路国へ流罪となりました。
仲麻呂側についていた多くの皇族も、諸王への格下げや位階剥奪、または臣籍降下の上、各地へ流罪となりました。
藤原南家の仲麻呂の一族もことごとく殺害されてしまいました。
仲麻呂の六男で若い頃から禅行を修めていた藤原刷雄(ふじわらのよしお)だけは死罪を免れ、隠岐国への流罪に留められました。
乱の後、孝謙上皇は、重祚し第48代称徳天皇として即位します。
仲麻呂が推進して施行された養老律令は、大宝律令をより良い形に藤原不比等が改良したものであったため、こちらは大宝律令に戻されることなく以降の律令制度を支える法として運用されていきました。
ですが、養老律令以外で仲麻呂が推進した唐風政策は中止され、元の日本式の官名に戻されました。