仏教公伝~丁未の乱 蘇我氏物部氏の対立 排仏崇仏論争
古墳時代、日本を統治していたヤマト朝廷は、後に天皇と呼ばれる「大王」を頂点とし、近畿地方を中心に東北から九州にかけ各地にいた有力な豪族たちを配下につけ、「氏姓制度」により、中央から地方までの豪族の支配の仕組みや統制を執っていました。氏姓制度とは苗字の意味ではなく、豪族の身分秩序のことで、氏は血縁的結びつきをもとに住んでいる地域や携わっている仕事によって与えられた豪族の集団名、姓は強さや能力に応じてランク付けされたヤマト政権内での豪族の身分や地位を表します。姓には、「公・君」「臣」「連」「直」「首」「村主」などがあり、「臣」「連」の姓を与えられた豪族が、ヤマト朝廷の中枢を担い、その中でも特に有力な豪族を大臣、大連といいました。古墳時代末期、宣化天皇は政権で軍事関連を担当していた大連の大伴氏、武器の製造や管理、刑罰や裁判などを担当していた同じく大連の・物部氏に加え、外交や氏族を管理する大臣として蘇我稲目を政権運営に加えました。そのような折、仏教はこの宣化天皇の次の欽明天皇に百済の聖明王より公伝されました。しかし、百済から公伝された仏教が原因で、仏教を肯定する大臣の蘇我氏と仏教を否定する大連の物部氏を中心に、朝廷内は二分されてしまいます。この対立は蘇我氏と物部氏親子2代に渡る対立となり、物部氏は滅んでしまいます。ここでは、仏教が公伝された経緯・背景、その後に物部氏と蘇我氏の間で起こった排仏崇仏論争、物部氏が滅ぶきっかけとなる丁未の乱(ていびのらん)について解説します。