弥生時代の文化 食事、仕事、道具、生活の様子など日本人の暮らし
弥生時代における縄文時代からの変化点
食、仕事・生業(せいぎょう)について
稲作が伝わったことで最も変わったこと、それは食と生業と言えるでしょう。
縄文時代の生業は狩猟・漁労(ぎょろう)・採取(さいしゅ)で、それにより肉・海産物・木の実などの食糧を手に入れていました。これに対して弥生時代の生業の中心は稲作に変わります。縄文時代の食糧、特に肉や海産物は長期保存ができないため、気候や天候などが原因で食糧が獲れなかった日には、食べるものが少なくなってしまいます。これに対して、稲作であれば自分たちに必要な食糧を自分たちで生産することが出来る上、稲作によって取れる米は長期保存が可能でした。これにより安定して米を手に入れられるようになったため、主食は米に変わりました。
稲作の方法は段階を経て、現代の稲作に近づいていきます。まず稲作が伝わってすぐの弥生前期では、湿田と呼ばれる田んぼでの稲作が中心でした。湿田はもともと湿地である場所を田んぼにするもので、もともと湿地の場所を田んぼにするためすぐに始められるのですが、常に水に浸かっているために土に新鮮な空気(酸素)が入りにくく、生産性が低いという欠点がありました。植物は土から水分と酸素を取り込んでいるため、酸素が少ないと育ちにくいのです(これを根腐れと言います。)。
弥生時代中期以降になると、湿田の欠点を解消する乾田が広がっていきます。乾田とは、稲を育てる時には湿地になっていますが、稲を刈り取った後は水を抜いて土を乾かす田んぼです。土を乾かし、しっかりと耕すことで新鮮な空気が土壌に入り込み、稲の生産性が高くなります。しかし乾田は、田んぼに水を引き込む灌漑と排水設備が必要なため、弥生時代の人々は人手を増やしたり、農具を鉄製にして作業性を上げるなどして、湿田を乾田にして生業である稲作を進化させていきました。
また、各地の遺跡から出土する炭化穀物などにより、米の他にも、小麦、粟(アワ)、稗(ヒエ)、小豆などの雑穀が栽培されていたことも明らかになっています。このことから、弥生時代の生業は稲作を始めとした様々な穀物を栽培する「農業」であったことがわかります。もちろん、それまでの狩猟や漁労なども無くなったわけではありませんが、その割合は大きく変わったと言えるでしょう。
食糧の種類と生産方法が変わり、日々の食糧が安定して手に入りやすくなったこと、これが弥生時代の大きな特徴です。
※縄文時代晩期末頃には菜畑遺跡という遺跡で水田跡が見つかっています。
道具について
金属器
道具については石器も使用されていましたが、徐々に金属器が使用されるようになっていきます。これは金属器の方が石器に比べ、耐久性が優れていたからです。金属器には鉄器と青銅器がありますが、主な使い分けは以下の様にされていました。
・鉄器
鉄器は実用的な道具として使われていました。
例えば、農具については弥生時代前期には木製の鍬(くわ)などが使われていましたが、中期から後期になるにつれて鉄鍬(てつくわ)や鉄鎌(てつかま)が使われるようになりました。これは木製の柄の先端に鉄製の鍬などを取り付けたものです。また、弥生時代になると争いも起こるようになり、鉄剣(てっけん)などの武器としても使用されるようになりました。
■鉄製農具
・青銅器
青銅器は実用的なものよりは祭事に使われることの方が多かったとされています。
具体的には釣鐘(つりがね)型の銅鐸(どうたく)や武器の形をした銅矛(どうほこ)・銅戈(どうか)、銅剣(どうけん)、そして銅鏡(どうきょう)などです。これらは主に儀式で使われる祭器(さいき)として使用されていました。また、分布に偏りがあるものもあり、銅鐸は近畿地方、銅矛・銅戈は九州北部、銅剣は瀬戸内海中部を中心として分布しているのが特徴です。
■弥生時代の青銅器
銅鐸 | 銅矛 |
---|---|
銅戈 | 銅剣 |
銅鏡 | |
■銅矛・銅戈・銅剣の違い
画像:日本史つれづれブログ
■青銅器の分布
画像:石川晶康 日本史B講義の実況中継
石器
弥生時代には金属器が伝わりましたが、石器も全く使用されなくなったわけではありません。例えば、弥生時代に特徴的な石器として、石包丁(いしぼうちょう)があります。これは稲を刈るための道具で、稲作文化と同時に大陸から伝わったものとされています。ただし、金属器の利用が広がっていく弥生時代の後半にかけて、石包丁は次第に姿を消し、鉄鎌にその座を奪われていきます。
■石包丁
画像:コトバンク 石包丁
土器
土器についても変化が起こりました。
縄文土器と比べて異なる点は、土器の形状が変わった点です。縄文時代には浅鉢(あさばち)と深鉢(ふかばち)形状が基本でしたが、弥生時代になると貯蔵のための壺型(つぼがた)、煮炊きに使う甕形(かめがた)、盛り付けに使う高坏型(たかつきがた)、鉢型(はちがた)が基本となります。特に米などを貯蔵するために、壺型の土器がたくさん作られるようになった点は、稲作をするようになって起こった変化と言えます。この特徴は弥生時代前期の代表的な遠賀川式土器にも現れています。
また、稲作が伝わったからではありませんが、縄文土器と弥生土器の違いとして、製法の違いが挙げられます。土器は粘土で形を作った後、焼いて固める工程がありますが、縄文土器は「野焼き」という土器を薪で囲うだけの焼き方です。一方、弥生土器は「覆い焼き」という焼き方で土器を藁(わら)で覆い、その上から土でドーム状の囲いを作ってから焼きます。「覆い焼き」は窯(かま)で焼くのと似たような効果があり、均一に熱が加わりやすいため焼きムラが出にくく、焼き上がりが良好になります。そのため、弥生土器は縄文土器に比べ壊れにくいです。この製法の違いは、大陸での土器製法の技術が伝わったことにより変化したものと考えられます。
■野焼き
■覆い焼き
画像:安城市 土器が出来るまで
遠賀川式土器は弥生時代の最初の土器という位置づけの土器です(弥生時代早期に突帯文土器がありますが、弥生時代早期は縄文時代晩期から弥生時代への移行期という時期区分のため、突帯文土器についてはここでは除きます。) 。
遠賀川式土器の特徴は壺、甕、高坏、鉢という4種類で1セットの構成になっていること、そして他の土器と大きく異なる点はその形状・構成が西日本全域に広がっていることです。
遠賀川は福岡県にありますが、この遠賀川式土器は愛知県でも発見されています。驚くべきことは愛知県で発見されたものと福岡県で発見されたものではその間に地域差を感じないほど、形状・構成が似ていることです。
これだけ広範囲に分布している土器は縄文土器、弥生土器を通じて見ても非常に珍しいものです。通常、土器は地域ごとに特色があるため、場所が違えば違う特徴を持っています。実際に、遠賀川式土器以降の土器では、九州と中国地方、四国地方、近畿でそれぞれ異なった特徴を持っています。
しかし、この遠賀川式土器に関しては、西日本全域でほぼ同じ特徴を持っています。これは、遠賀川式土器が西日本一帯に急速に広がったであろうことを意味しています。この遠賀川式土器の最古のものが板付Ⅰ式土器で、弥生時代最古の土器ともされています。
■遠賀川式土器
画像:豊橋市美術博物館]
建造物
稲などの食糧を長期間保管するために広まった建造物があります。高床式倉庫(高床倉庫)です。稲などの穀物は乾燥した状態では長期保存できる一方、湿気に弱い欠点があります。
高床式倉庫では地面と床の間に空間を作り、そこに風を通すことで湿気を防ぎ食糧を長期間保存できるようにしました。また柱にはネズミの侵入を防ぐための「ねずみ返し」を付け、動物からも食糧を守る設計になっていました。
■高床式倉庫
高床式倉庫 | ねずみ返し |
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画像:登呂遺跡
生活について
稲作が主な食糧生産方法になることで、生活スタイルも変わっていきました。最も大きな違いは集団の規模が大きくなったことです。稲作には人手が必要なため、必然的に集団の規模が大きくなっていったのです。そして集団が大きくなると、これをまとめる人間が必要になります。これによって管理する側、される側という身分の差が生じるようになりました。
また、食糧が米になったことで今度は争いが起きるようになります。原因は農地の拡大や灌漑用の水の確保のための領地争い、余分に収穫できた米の強奪などのためです。人が持っているモノやテリトリーを奪おうとする人が出てくれば、もともと持っていた人たちはそれを守ろうとするため、争いになります。
こうしたことから、弥生時代には防御機能を持つ集落が拡がっていきます。それが環濠集落(かんごうしゅうらく)や高地性集落(こうちせいしゅうらく)です。
環濠集落(かんごうしゅうらく)
環濠集落とは敵に攻撃されにくい様に集落の周りを深い濠(ほり)で囲ってある構造の集落です。早いものでは九州地方で縄文時代晩期末頃に現れ、弥生時代中期ごろには関東地方まで広まりました。もともとは朝鮮半島から伝わったものとされています。
■環濠集落の濠の様子
高地性集落(こうちせいしゅうらく)
高地性集落も環濠集落と同じく敵に攻撃されにくくする目的で、高い丘のような場所に築かれた集落です。高いところというのは敵に攻められても相手の様子が見やすく、防御がしやすいというメリットがあります。この高地性集落は弥生時代中期から後期頃に大阪や瀬戸内海沿岸地域に現れたもので、環濠集落とは違い、時期や分布が限られています。
(この理由についてはハッキリとはわかっていませんが、高地性集落が稲作には向いていないような場所にあったり、多くの石の鏃(やじり・矢の先端につける武器のこと)や、のろし跡が見つかったりすることなどから、軍事的な拠点であった可能性が考えられています。そのため、国内での戦争が多かった時期・場所に関係して分布しているのではないでしょうか。)
■高地性集落の遺跡
画像:高槻市 古曽部・芝谷遺跡
小国について
集落が大きくなり、他の集落との争いも頻発するようになると、自然と集落は強い幾つかの集落に統合され、「小国」が生まれていくことになります。弥生時代の中期ごろにはこのようにしてできたいくつもの小国が乱立しました。その様子は中国の古書「『漢書(かんじょ)』地理史(ちりし)」や「『後漢書(ごかんじょ)』東夷伝(とういでん)」に記されています。
・『漢書』地理史
「夫(そ)れ楽浪(らくろう)海中(かいちゅう)に倭人(わじん)有り。分れて百余国と為(な)る。歳時(さいじ)を以て来り献見(けんけん)すと云う。」
(訳:楽浪郡(現在の朝鮮半島)の海の向こうに倭人(当時の日本人の呼び名)がいた。百余りの国があり、毎年定期的にやってきては貢物を献上しに挨拶をしに来ると言う。)
(日本語訳 参照)
・書籍「日本史研究」
・書籍「ナビゲーター日本史B」
『漢書』地理史は日本のことについて記載がある最古の資料で、これは紀元前1世紀頃の日本の様子だとされています。百以上の小国があったことがわかります。
・『後漢書』東夷伝
「建武中元(けんむちゅうげん)二年、倭(わ)の奴国(なこく)、貢(みつぎもの)を奉(ほう)じて朝賀(ちょうが)す。使人(しじん)自(みずか)ら大夫(たいふ)と称す。倭国(わこく)の極南界(きょくなんかい)なり。光武(こうぶ)、賜(たま)ふに印綬(いんじゅ)を以てす。
安帝(あんてい)の永初(えいしょ)元年、倭の国王師升(すいしょう)等、生口(せいこう)百六十人を献(けん)じ、請見(せいけん)を願ふ。
桓霊(かんれい)の間(かん)、倭国大いに乱れ、更(こもごも)相攻伐(あいこうばつ)し、歴年(れきねん)主(あるじ)無し」
(訳:建武中元2年(紀元57年)、倭の奴国は使者に貢物を持たせ、光武帝に挨拶に来た。倭の奴国の使者は自分のことを大夫と名乗った。奴国は倭国の最南端にある。光武帝は奴国に印綬(金印(きんいん)と組紐(くみひも)のセット)を与えた。
安帝の永初元年(紀元107年)、倭の国王の師升らが奴隷160人を献上し、皇帝に直接お目にかかりたいと願った。
桓帝と霊帝の間(紀元147~189年)、倭の国は内乱が続き、長い間統一されなかった。)
(日本語訳 参照)
・書籍「日本史研究」
・書籍「ナビゲーター日本史B」
・HP「DJH日本史資料集『後漢書』東夷伝」
『後漢書』東夷伝には弥生時代中期末頃~後期にかけて、3つの時代のことが書かれています。この文章に出てくる印綬(金印)が、実際に福岡県の志賀島(しかのしま)というところで1784年に発見されました。理由は不明ですが、『後漢書』東夷伝には「倭の奴国」と「倭」の字が記載されていましたが、金印では「委」の文字となっています。
こうした時代を経て、弥生時代の後期頃に出てきたのが邪馬台国(やまたいこく)です。邪馬台国には卑弥呼(ひみこ)という女王がおり、中国とも交流がありました。この邪馬台国の頃の様子については中国の古書である「『魏志(ぎし)』倭人伝(わじんでん)」に記されています。非常に長文になるため、原文の記載は省略しますが、以下のような内容が記載されています。
・『魏志』倭人伝
・2世紀末頃に起きた大乱(『後漢書』東夷伝にあった内乱のこと)が収まらなかった倭の国は、卑弥呼という女王を擁立した。すると内乱は収まり、邪馬台国を中心とした29程度の小国の連合国が出来上がった。
・卑弥呼は鬼道(きどう)(呪術のこと)を使うシャーマンで、神の声を聞くことに長けており、その力で民を支配した。歳をとっても夫はおらず、政務は弟が行った。
・卑弥呼は239年に魏(ぎ)の皇帝に奴隷や織物などを献上し、魏の皇帝から「親魏倭王(しんぎわおう)」の称号と金印、そして多くの銅鏡などを与えられた。
・卑弥呼は247年頃に亡くなり、後継者として男の王が立てられたが、争いが起きた。そこで卑弥呼の一族である壱与(いよ)という13歳の少女を王にしたところ争いは止んだ。
(日本語訳 参照)
・書籍「日本史研究」
・書籍「ナビゲーター日本史B」
・HP「古代史レポート 魏志倭人伝」
このように『魏志』倭人伝には邪馬台国の成立の様子や王である卑弥呼について記載されていました。
弥生時代に入ると次第に集落が大きくなり、中期頃には集落より大きい単位の小国が乱立、さらに後期にはそれらの小国が集まり、大きな邪馬台国という連合国ができたのです。こうした小国が生まれたことは弥生時代における大きな変化点と言えます。