奈良時代末、仏僧でありながら、一時は臣下・宗教界における最高権力者である太政大臣禅師・法王にまで上り詰めた弓削道鏡(ゆげのどうきょう)。
その権力の頂点で彼が目指したのは、まさかの天皇即位でした。
仏教を武器に政界を席巻した道鏡の運命は、宇佐八幡宮神託事件により大きく揺れ動きました。
道鏡の出自から太政大臣禅師・法王まで、また一挙に失脚するまでについて解説します。
弓削道鏡の出自と孝謙天皇との出会い
弓削道鏡の出自
弓削道鏡は700年頃、河内国若江郡(現在の大阪府八尾市)で生まれたとされています。
弓削氏は、古代より弓作りを統率してきた品部(しなべ・ともべ)で、天神系・天孫系・地祇系の3つの系統があったとされています。
天神系は日本神話における天津神を祖とする天の神々の系統になります。
天孫系は、天津神のうち、天照大御神の孫である瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)を祖とする系統です。
地祇系は、地上の神々で、特に自然や土地を守護する神々を祖とする系統になります。
孝謙天皇との出会い
道鏡は若い頃、法相宗の高僧であった義淵(ぎえん)に弟子入りします。
義淵は出家後、元興寺に入り唯識・法相を修めると、龍蓋寺、龍門寺など5ヶ龍寺を創建。
703年に僧正に任じられ、元正天皇・聖武天皇の内裏での法要にお供した実力ある僧でした。
義淵の弟子には、橘諸兄の政治を補佐した玄昉、朝廷から禁止されていた庶民への仏教流布を行い弾圧されていたものの、大僧正まで昇りつめ東大寺の四聖の一人となった行基、東大寺を開山し、行基とともに四聖と数えられた良弁など、奈良時代に活躍した多くの僧がいました。
道鏡は、兄弟子であった良弁から梵語(サンスクリット語)を学び、禅について学び通じていたことから、皇室の禅師として宮中の仏殿である内道場に入ることが許され、皇族との接点が生まれました。
761年、平城京の宮殿改修を行うため、淳仁天皇は近江国に造営した保良宮に都を一時的に移しました。
前年の760年、孝謙上皇の母、光明皇太后は崩御していました。
孝謙上皇は母を亡くした悲しみから、保良宮で病に伏せていました。
ここで看病に当たったのが禅師として同行していた僧の道鏡でした。
道鏡は懸命に看病を行うと、孝謙上皇の病は完治しました。
この看病をきっかけに、道鏡は孝謙上皇からの寵愛を受けるようになりました。
孝謙上皇の寵愛と朝廷での出世
孝謙上皇が道鏡を寵愛するようになると、太政大臣であった藤原仲麻呂はそれを良く思わず、淳仁天皇を介して、孝謙上皇に道鏡との関係を諫めさせました。
しかし、この淳仁天皇の行為は、孝謙上皇を激怒させ、淳仁天皇と対立するようになりました。
762年6月23日、平城宮の改修が終わり、淳仁天皇は平城京に戻ります。
しかし、孝謙上皇は平城宮に戻らず、平城宮東宮に隣接している光明皇太后の生前に創建された法華寺に入りました。
7月3日、孝謙上皇は淳仁天皇が不孝であるため、出家します。
また、淳仁天皇は天皇としての祭事だけを行い、国家の大事である政務は自分が執ると宣言したのです。
これをきっかけに、763年から764年にかけ、朝廷内では孝謙上皇派の吉備真備や道鏡が要職に就く一方で、淳仁天皇派では藤原仲麻呂の子たちが軍事的要職に就くなど、次第に淳仁天皇派と孝謙上皇派との間での派閥対立が深まるようになりました。
764年10月11日、孝謙上皇は藤原仲麻呂が軍事クーデターを起こそうとしていることを察知すると、すぐに皇族の山村王を淳仁天皇のもとに派遣し、軍事指揮権の象徴であった鈴印(御璽と駅鈴)を回収しました。
これを奪還しようとした藤原仲麻呂側との間で戦闘が起きるのですが、結局鈴印は孝謙上皇の元に渡り、藤原仲麻呂は朝敵となりました。
仲麻呂は太政官印を奪取して、近江国に逃走しましたが、9月13日に殺害されました。
孝謙上皇は藤原仲麻呂敗死の知らせを聞いた9月14日、左遷されていた藤原豊成を右大臣とし、9月20日には道鏡を大臣禅師としました。
10月9日には、淳仁天皇を廃位して大炊親王とし、淡路公(あわじのきみ)という姓に封じ、淡路島への流刑としました。
これまで天皇が退位した場合、太上天皇(上皇)の称号が与えられましたが、淳仁天皇は太上天皇ではなく、親王に戻され、天皇としての権威をはく奪されたのです。
この淳仁天皇の廃位により、孝謙上皇は称徳天皇として重祚、日本史上唯一の出家のまま即位した天皇として復帰、皇位継承については、適任者が見つかるまで皇太子は定めないという方針を出しました。
しかし、この方針に対し、765年8月に舎人親王の孫である和気王(わけおう)が皇位を望み、謀反の計画を立て流罪となる事件が起こりました。
あわせて、飢饉も発生したことで、藤原仲麻呂の乱以降、政情は不安定になっていました。
10月になると、称徳天皇は紀伊への行幸の際、道鏡の故郷である河内に行き、河内に作られた行宮に立ち寄った際、藤原仲麻呂が就いていた太政大臣の役割を道鏡に託し、太政大臣禅師に任じました。
太政官の権限を手に入れた道鏡は、政治にも積極的に参画するようになります。
称徳天皇は、行幸先から平城京に戻ると、11月に大嘗祭(だいじょうさい)を行います。
これまでの天皇即位時の大嘗祭では、天皇がいくら仏教を推進していても大嘗祭は神事であるため、仏教の僧侶が出席することはありませんでした。
それが称徳天皇の即位時の大嘗祭では、道鏡を含む僧侶が出席するという、これまでに例のないものになりました。
766年10月には、称徳天皇は道鏡を法王に任じました。
法王は宗教界の頂点で、世俗は天皇が、仏門は法王が、それぞれ支配することとして任命しました。
そのため、宗教上では法王は最高指導者であるため、天皇より高い地位だと称徳天皇は位置付けたのでした。
これを期に、道鏡の下には、法臣、法参議という僧侶の公卿が設置されます。
また道鏡の実弟である弓削浄人(ゆげのきよひと)が中納言となるなど、道鏡の勢力が拡充されていきました。
右大臣の藤原豊成が薨去していたため、称徳天皇を孝謙上皇時代から支えていた吉備真備が右大臣に任命されました。
吉備真備は、藤原仲麻呂の乱の際に緊急で従三位・参議に叙任されると、道鏡が法王に任命された際に中納言へ引き上げられ、その2ヶ月後に大納言の藤原真楯が薨去したことで大納言に、その半年後に右大臣になったのです。
吉備真備の短期間でのスピード出世や、学者から右大臣への出世は異例ずくめのものでした。
このように、太政大臣禅師・法王として権力を手中に収めた道鏡と、称徳天皇とによる二頭体制が作られたのでした。
その後、称徳天皇と道鏡による仏教政策により、西大寺の拡張や西隆寺の造営、百万塔の製作を行うといった仏教重視の政策を推し進めました。
また伊勢神宮や宇佐八幡宮といった皇室に関係の深かった神社内に神宮寺を建立するなど、神仏習合も進められました。
僧の道鏡が政界・宗教界での実質頂点に立ったことから、仏教の理念に基づいた政策が推進されていくのでした。
日本三悪人に数えられるきっかけとなった宇佐八幡宮神託事件
769年、道鏡の弟である弓削浄人と大宰府の主神(かんづかさ)の中臣習宜阿曽麻呂(なかとみのすげのあそまろ)が、「道鏡を皇位に就かせれば天下太平になる」という宇佐八幡宮の神託があったと、称徳天皇に奏上しました。
皇位継承者となる皇子を持たない称徳天皇は道鏡を天皇の皇位につけたいと考えていたこともあり、その奏上を聞き大変喜びました。
しかし、他の皇族や藤原氏を始めた諸臣は、その奏上に疑いをもち真実を確認するべきと主張しました。
また道鏡自身も、神託の信ぴょう性について、宇佐八幡宮に調査すべきと進言したのです。
これにより、称徳天皇は側近の女官で、道鏡の次に信頼を置いていた法均(ほうきん(和気広虫(わけのひろむし)))を宇佐八幡宮の神託を確認するための勅使に任じました。
しかし法均は、年齢と病弱であったことから長旅に耐えられないという理由で弟の和気清麻呂を代行としてほしいと願いでます。
これにより、宇佐八幡宮へは和気清麻呂が向かうことになりました。
和気清麻呂は、神託について宝物を奉り天皇からの命令書である宣命の文を読もうとした時、神が禰宣(ねぎ)として宇佐八幡宮で祭祀に専従している辛嶋勝与曽女(からしまのすぐりよそめ)に託宣し、宣命を聞くことを拒みました。
不審を抱いた清麻呂は、改めて与曽女に宣命を訊くことを願い出て、与曽女が再び神に顕現を願いました。
すると、身の丈三丈、およそ9mの僧形の大神が出現しました。
大神は再度宣命を訊くことを拒むものの、清麻呂に次のような神託を告げました。
「わが国は開闢このかた、君臣のこと定まれり。臣をもて君とする、いまだこれあらず。天つ日嗣は、必ず皇緒を立てよ。無道の人はよろしく早く掃除すべし」
現代語に訳すと次のような内容になります。
「我が国は建国以来、君主と臣下の関係が定まっている。臣下を君主とすることは、これまで一度もなかった。天皇の位は、必ず皇族の血筋から立てるべきである。道理に反する者は、早急に排除するべきだ。」
和気清麻呂は、この神託を朝廷に持ち帰り、奏上しました。
先の神託が嘘だったという報告をしたことにより、称徳天皇は道鏡を天皇にすることができなくなりました。
これに怒った称徳天皇は、和気清麻呂を因幡の国(鳥取県)へ左遷、さらに「別部穢麻呂(わけべ の きたなまろ)」と改名させて大隅国へ配流したのでした。
また、姉の広虫も「別部広虫売(わけべ の ひろむしめ)」と改名させられて、処罰されたのでした。
道鏡は和気清麻呂が宇佐八幡宮に出立する際、天皇になれた際には、出世させると懐柔しようとしたといわれています。
しかし、和気清麻呂は先の神託が嘘だったという奏上を命がけで行い、道鏡からの懐柔に乗りませんでした。
和気清麻呂の奏上に怒ったのは称徳天皇だけではなく、道鏡も同じでした。
目の前に皇位が見えていたものが、和気清麻呂の奏上により、天皇の祖先神である八幡神からの神託で絶たれてしまったのです。
(宇佐八幡宮の主祭神は第15代応神天皇で、神格化されて祀られ、伊勢に継ぐ第二の宗廟とされていました。)
結果、朝廷から因幡へと左遷される道中で、和気清麻呂の命を狙い暗殺しようとします。
しかし、急に雷雨が巻き起こり実行は阻止されたといいます。
この事件により、道鏡は称徳天皇をたぶらかして皇位を狙った悪人として、日本三悪人の一人として数えられるようになったのです。
称徳天皇崩御と下野国への左遷
和気清麻呂が持ち帰った神託に失望した称徳天皇は、769年10月1日、皇族や諸臣に対し、生前の元正天皇・聖武天皇の言葉を引用し詔を発します。
【称徳天皇の発した詔の主旨】
- 自分(称徳天皇)は唯一の正当な皇位継承者である
- 次の天皇を決める権限も自分だけが持っている
- 皇位継承者は、神々の意志にかなう者でなければならない
- その意志を最もよく理解しているのは自分(称徳天皇)である
- 元正天皇と聖武天皇の詔は、皇位を決める権利の正当性と不可侵性を保証するもの
- 天皇に仕える臣下たちは、天皇の権限を侵すことなく忠誠を尽くさなければならない
- 他の誰かが天皇を立てようとする行為は、天皇への忠誠を裏切るものであり、許されない
- 忠誠を誓った者たちは、天皇(称徳天皇)のもとに団結し、一致して従うことが求められる
続日本紀に書かれた称徳天皇の詔では、「まず自分が正当な天皇であり、次の天皇を決める権利も自分だけにある」と強く主張しました。
さらに、他の誰かが勝手に天皇を決めようとすることは、天皇に対する忠誠を裏切る行為だとし、忠誠を誓った者たちには、しっかりと自分に従い、天皇に逆らうことなく、忠実であることを求めました。
この指示は、天皇の権限がどれほど大切で、他の者がそれに挑戦するのは許されないという考えを改めて強調し、伝えたものでした。
称徳天皇が発した詔の背景には宇佐八幡宮からの神託に関する一連の動きに対しての怒りがあったと考えられます。
称徳天皇は道鏡を寵愛し、宗教上では天皇よりも権威がある法王としていたこともあり、道鏡に皇位を継承したいと考えていた可能性はあったかもしれません。
そのようよう中、道鏡一派による道鏡の天皇擁立、それに対抗する皇族・諸臣の動きから起こった宇佐八幡宮神託事件において、諸臣が天皇をないがしろにして皇位継承者を擁立しようとしたことに対し、改めて皇族・諸臣に対して、皇位継承については自身のみに与えられた権利であると戒める詔を出したと考えられます。
しかし、宇佐八幡宮神託事件以降皇位継承に関しての動きはなく、称徳天皇から後継者について一切の発言はありませんでした。
宇佐八幡宮神託事件の後、道鏡の故郷に作られていた弓削行宮(ゆげのあんぐう)を整備していた「由義宮」に、称徳天皇は行幸します。
この際、由義宮を平城京の副都とする勅をだし、「西京」と位置付けました。
770年2月にも、1ヶ月を越して由義宮に滞在します。
3月の半ば頃、由義宮から平城京に戻りますが、その直後に称徳天皇は病に臥せます。
このとき、看病のために称徳天皇に近づけたのは女官の吉備由利(きびのゆり)だけでした。
吉備由利は、藤原仲麻呂の乱以降に父の吉備真備とともに称徳天皇に信頼された女性で、768年には従三位に昇進し公卿(中納言や近衛大将に相当)となるほどの信頼を得ていました。
3月に倒れて以降、称徳天皇は寝所に吉備由利しか立ち入ることを許しませんでした。
群臣との取次も吉備由利のみが務めたとされており、寵愛を受けた道鏡ですら一切の立入りは出来ず、遠ざけられていました。
770年8月4日、称徳天皇は平城宮西宮寝殿で崩御しました。
皇位継承者についての発言をすることなく崩御したのでした。
崩御後、道鏡は失脚します。
称徳天皇は8月17日に平城京北側の丘に葬られると、道鏡は山陵のほとりに庵を設けそこで称徳天皇の喪に服し御陵を守ろうとしました。
しかし、坂上苅田麻呂の光仁天皇への告言により、8月21日に帝位を狙う罪で下野薬師寺別当として命ぜられます。
下野薬師寺は、奈良時代末期に日本に渡ってきた鑑真により、授戒できる戒壇で、全国に3ヶ所あるうちの1つで東国にありました。
つまり、権力を持っていた道鏡を中央から離れた東国に流刑にされたものの、これまでの功労もあったため、刑罰は科されず、寺院の経営権の無い別当として、寺院としては大きかった薬師寺に左遷されたのでした。
道鏡の失脚に乗じて、大納言であった弟の弓削浄人と浄人の3人の子を含む4人は、764年に淳仁天皇より授かっていた弓削宿禰姓から宿禰の姓をはく奪され、弓削姓に戻されたうえ、土佐国への流罪となりました。
宿禰の姓は、八色の姓における真人(まさと)・朝臣(あそん)に次ぐ3位に位置する姓であり、連(むらじ)の姓を持つものの上位姓でした。
また、弓削浄人たちは、781年に赦免され、河内国に戻るものの、平城京への入京は許されませんでした。
下野薬師寺の別当となった道鏡は、2年後の772年72歳にて亡くなりました。
貴族としての埋葬ではなく、庶民扱いとして寂しく葬られたといわれています。
道鏡悪人説は藤原氏による歴史改ざんの可能性
道鏡の生涯に関する歴史は、女帝をたぶらかして天皇即位を狙った悪人として描かれています。
しかし、道鏡に関する記録は、藤原氏が大きく関わった『続日本紀』にしか登場しません。
道鏡は淳仁天皇の治世においては、淳仁天皇派であった藤原仲麻呂とその一派と敵対していました。
また、称徳天皇即位後については、権力を手中に収めた影響で、藤原氏と対立するようになっていました。
そのため、宇佐八幡宮神託事件を含め道鏡にまつわる続日本紀に残る悪い記録は、道鏡を貶めるために後世の藤原氏が歴史を改ざんして、記録に残した可能性が考えられています。
道鏡にまつわる風説や伝承
道鏡の歴史は改ざんされた可能性がありますが、それらと合わせて、後世には不名誉な噂や伝承が残されるようになります。
道鏡と称徳天皇の姦通説
道鏡と称徳天皇との関係には、恋愛関係にあったのではないかという姦通説が存在します。
【姦通説の背景】
- 称徳天皇と道鏡の信頼関係
- 道鏡の急速な昇進
- 噂や後世における記録
称徳天皇は、病気療養中に道鏡から受けた看病において、道鏡を深く信頼し、彼を寵愛し、回復後に側近に引き上げました。
僧侶でありながら、重要な政治的役割を果たし、称徳天皇から太政大臣禅師、法王といった称号を授けられ、故郷においても弓削寺の拡張、西京として由義宮の造営など多大な恩恵を受けました。
この異例の待遇から、称徳天皇と道鏡の関係に疑問を持つ人々が現れたのでした。
また、この昇進により、藤原氏をはじめ朝廷に関わる諸臣貴族からの反感を買い、道鏡と称徳天皇はただの主従関係以上の関係ではないかという疑惑が浮上したのです。
また平安時代末に作られた今昔物語集(こんじゃくものがたりしゅう)や鎌倉時代に作られた愚管抄(ぐかんしょう)など後世の書物や歴史書において二人の関係が親密すぎるとされていました。
これらの背景があり、姦通説は生まれました。
しかし、この姦通説には確かな歴史的証拠はありません。
道鏡は政治的にも大きな影響力を持ってしまったため、道鏡に対する敵対者や反感を持つ人々によって、姦通しているといったうわさが流された可能性があります。
また、称徳天皇が仏教に深く傾倒していたため、道鏡が僧侶として彼女に強い影響を与えたのは確かで、宗教的な信仰に基づく関係が過度に誇張され、恋愛関係に発展したという噂が後世に残った可能性もあります。
道鏡の墓所
道鏡は、庶民として葬られました。
栃木県下野市にある龍興寺(りゅうこうじ)境内には、道鏡の墓と伝わる直径38mの円墳が残されています。
この円墳は、道鏡を葬るために作られたものではなく、出土した埴輪から6世紀末頃に作られた古墳と見られており、追葬の形で道鏡が葬られたと伝えられています。