橘奈良麻呂の乱とは?橘奈良麻呂の変わかりやすく.藤原仲麻呂との関係、死後になぜ太政大臣になったのかなど

橘奈良麻呂の乱(橘奈良麻呂の変)とは、756年に橘奈良麻呂(たちばなならまろ)が藤原仲麻呂を滅ぼし、孝謙天皇(こうけんてんのう。718年~770年、在位749年~758年)を退位させて新たに別の皇族から天皇を立てようとした反乱をいいます。
計画段階で情報が漏洩してしまったことで実行できなかった、クーデター未遂事件でした。

クーデターは実現しなかったものの、多くの皇族や貴族が処罰を受けることとなり、獄死や遠流、官職を外されるといった、朝廷に大きな影響をもたらせた事件でした。

この事件の背景にあったのは、橘奈良麻呂が抱いた聖武天皇から譲位を受け即位した孝謙天皇や光明皇太后を後ろ盾として台頭する藤原仲麻呂への危機感でした。

命を狙われた藤原仲麻呂にとっては、権力掌握の面で有利に働いた事件となったのでした。

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橘奈良麻呂の乱(橘奈良麻呂の変)のきっかけ

聖武天皇(しょうむてんのう。701年~756年、在位724年~749年)の時代の後半に政治を支えていた橘諸兄。
737年に藤原四兄弟が病没して以降、翌738年から右大臣、743年から左大臣として756年までの13年間、要職に就いていました。

この橘諸兄の子が橘奈良麻呂でした。

橘奈良麻呂は、官職に付いていたものの740年までは元服前であったため、階位を与えられていませんでした。
階位が与えられたのは、聖武天皇が恭仁京(くにきょう)造営地であった相楽(現在の京都府木津川市加茂地区)に訪れたときのことでした。

相楽にあった橘諸兄の別邸に聖武天皇が立ち寄ったとき、橘奈良麻呂は従五位下を叙位されました。

大宝律令による制度では、高位者の子孫は父祖の位階に応じて一定以上の位階が叙位される制度があり、親王の子は従四位下、諸王の子は従五位下、五世王の嫡子は正六位上、諸臣で一位の嫡子は従五位下と定められていました。
諸兄は臣籍降下したとはいえ、奈良麻呂が従五位下に叙任されている点で、諸王の子としての扱いでした。

741年には、式部省直轄の官僚育成機関である大学寮の長官、743年には、正五位下を飛ばし正五位上の位階に叙任されるなど、出世の速度は早いものでした。

このような橘奈良麻呂でしたが、位階に叙任される前の738年に、聖武天皇が皇太子として皇女の阿倍内親王を立てた際に、『皇太子は存在しない』という主旨の発言をしています。

阿倍内親王が天皇に即位することは、過去の『中継ぎ女性天皇』ではなく、『1代限りで終わる女性天皇』であったためでした。

過去には、天武天皇(てんむてんのう。~686年、在位673年~686年)の皇太子であった草壁皇子が皇位継承前に薨去したため、その皇子であった軽皇子(かるのみこ)が即位適齢期になるまでの中継ぎで即位した持統天皇(じとうてんのう。645年~703年、在位690年~697年)、文武天皇(もんむてんのう。683年~707年、在位697年~707年)の皇子である首皇子(おびとのみこ)が即位適齢期になるまでの中継ぎで即位した元明天皇(げんめいてんのう。660年~721年、在位707年~715年)、元正天皇(げんしょうてんのう。680年~748年、在位715年~724年)がありました。

しかし、阿倍内親王の天皇即位には、その後に継承する皇子がいませんでした。

そのため、阿倍内親王の立太子は天皇になるべくしての立太子であり、阿倍内親王は中継ぎではなく、1代限りで終わる血統を引き継がない女性天皇を誕生させるものだったのです。

このような背景から、阿倍内親王の天皇即位に反対であった橘奈良麻呂は、743年に聖武天皇が難波行幸中に倒れた際、従五位下の役人であった小野東人(おののあずまひと)たちと謀り次期天皇に黄文王(きぶみおう.長屋王の子)を擁立する計画を立てます。

黄文王の祖父は天武天皇の皇子の一人・高市皇子(たけちのみこ)であり、その血統を持つ皇族であったため、天皇となるにふさわしい人材でした。

宿禰の姓を持つ佐伯氏の佐伯全成(さえきのまたなり)にも計画への参加を持ちかけましたが断られました。

宿禰の姓は八色の姓(やくさのかばね)で真人(まひと)、朝臣(あそみ)に次ぐ3番目の姓であり、天孫降臨以降の神を祖先に持つ氏族に与えられた権威のある姓でした。

そのため、佐伯全成に断られたことでこの計画は頓挫したのでした。

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藤原仲麻呂の台頭

749年、聖武天皇は阿倍内親王に譲位し、孝謙天皇が即位します。

光明皇后は皇太后になると、信任していた甥にあたる藤原仲麻呂を、皇太后のために新設された紫微中台の長官に任命しました。

橘奈良麻呂が正五位上の位階に叙任された743年には、藤原仲麻呂は従四位上に叙任され、参議に任じられていました。
橘奈良麻呂が参議に任命された749年7月には、藤原仲麻呂は大納言に任命されており、その1ヶ月後に紫微中令に任じられました。

このように、藤原仲麻呂は孝謙天皇との関係が良かったこともあり、公卿の中で急速に台頭していったのです。

【参考】
太政官の官職での上下関係は次の通りでした。
太政大臣>左大臣>右大臣>大納言>中納言>参議>左大弁>右大弁
大納言の場合、位階は正三位、中納言は従三位、参議は従三位もしくは正四位以上の位階を持ち左右大弁や蔵人頭などの官職を務めた経験がある者が任じられていました。
また紫微令は、光明皇后の為に作られた役所である紫微中台の長官であり、正三位相当とされていました。

一方で、阿倍内親王の皇位継承に批判的であった橘諸兄・橘奈良麻呂親子の勢力は、次第に衰退していきます。

橘諸兄は左大臣であったものの、大納言である藤原仲麻呂は孝謙天皇や光明皇太后の後ろ盾から、左大臣の権力を凌駕するほどの力を持つようになっていきました。
大納言の立場で左大臣である父の権力を抑え込んでしまった藤原仲麻呂の台頭に、橘奈良麻呂は危機感を抱いていたのでした。

このような背景から、橘奈良麻呂は孝謙天皇即位時の大嘗祭(だいじょうさい)のときに、再度謀反の計画を蒸し返します。

しかし、ここでも佐伯全成が拒絶したため、謀反の実行は出来ませんでした。

755年、橘諸兄の家司(けいし|親王家の家事を担当する職員)であった佐味宮守(さみのみやもり)は、主人の橘諸兄が自宅での酒席において、聖武上皇に対して無礼な発言をし、さらには謀反の気配があると密告しました。

聖武上皇は、この密告を取り合わず、問題としませんでした。

しかし、756年2月、橘諸兄は密告されたことを知り、左大臣の職を辞職しました。

同年4月、橘奈良麻呂は、聖武上皇が病気に倒れた際、陸奥守として陸奥に赴任していた佐伯全成に三度目の謀反の計画を謀ります。

このとき橘奈良麻呂が計画したのは、左大弁であった大伴古麻呂(おおとものこまろ)を誘い、宿禰の姓を与えられている大伴・佐伯両氏族とともに、黄文王を皇太子に擁立するという内容でした。

しかし、この計画については佐伯全成だけでなく、大伴氏も反対し、実行できませんでした。

1ヶ月後の5月2日、聖武上皇は崩御します。
この際、聖武上皇の遺言により、決まっていなかった孝謙天皇の皇太子として、新田部親王(にいたべしんのう.天武天皇の皇子)の子である道祖王(ふなどおう)が立太子されました。

757年3月、道祖王は姦淫で聖武天皇の服喪の礼をけがしたり、宮中の機密を外部に漏らすなど、皇位継承者として相応しくないという理由から皇太子を廃され、4月には次の皇太子を決める会議が開かれました。

右大臣で藤原仲麻呂の兄である藤原豊成と中納言で藤原房前の次男であった藤原永手は、新田部親王の子で、道祖王の兄である塩焼王(しおやきおう. 天武天皇の孫)を推挙しました。

長親王(ながのみこ.天武天皇の皇子)の子で臣籍降下した公卿の文室智努(ふんやのちぬ)と大伴古麻呂は、舎人親王の四男である池田王を推挙しました。

しかし、藤原仲麻呂は、『臣下のことを一番よく知っているのは君主である』と述べ、天皇の意向に従うと発言したのです。

孝謙天皇は、今回廃太子した道祖王は新田部親王の子であったため、今度は舎人親王の子の中から選ぶのが適当だと言いました。

舎人親王の皇子の中だと、天武天皇の孫であり舎人親王の子の船王(ふねおう)は男女関係の乱れがあると評価されており、池田王は孝行に欠けると評価され退けられ、塩焼王も聖武天皇から不興を買っていたため不適切とされ、妥当なのは大炊王(おおいおう)だとし、大炊王を立太子すると宣言しました。

この大炊王は藤原仲麻呂が自宅に住まわせ庇護していた皇族であり、藤原仲麻呂は孝謙天皇に大炊王を立太子させる宣言をさせることにより、自身に有意な皇族を皇太子にすることに成功したのです。

舎人親王の子から選ぶとなったとき、大炊王以外の兄弟王が選択肢から外れる可能性を踏んで、孝謙天皇の意向に従うとしたのでした。

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橘奈良麻呂の乱 藤原仲麻呂排除の謀反計画と発覚

藤原仲麻呂の思惑通り、大炊王が皇太子になると、多くの皇族や貴族は仲麻呂が政治の中心的な立ち位置で振る舞う行為に不満を持つようになります。

このことから、橘奈良麻呂は、仲麻呂への不満を持つ者たちを集めて藤原仲麻呂を排除しようと考えるようになりました。

757年6月28日、この計画を耳にした長屋王の子の一人である山背王(やましろおう)は、参議の橘奈良麻呂が謀反を計画し、武器を準備していることや左大弁の大伴古麻呂もこの謀反の計画に関わっていることを訴え出たことで、孝謙天皇や光明皇太后にも謀反の動きがあることが伝わりました。

翌6月29日、橘奈良麻呂、大伴古麻呂、小野東人をはじめとした約20名が集まり、7月2日に藤原仲麻呂に対して挙兵することを誓約しました。

挙兵当日、孝謙天皇は諸臣に対して、
「謀反の噂があるが逆心を抱くことはやめるようにせよ」
といった詔勅を出しました。

光明皇太后も、
「皆が心を同じくして天皇を助けようとする心がけがないため、謀反の噂が聞こえてくるようになったと思われる。皆が清き心で天皇を助け仕えまつらなくてはならない」
といった宣明を出したのでした。

しかし、その日の夕方、天皇の親衛軍組織である中衛府の役人であった上道斐太都(かみつみちのひたつ)は、小野東人より謀反計画への参加を勧誘されたと藤原仲麻呂にこの計画を密告します。

この密告により、事態は大きく動きました。

密告を受け、藤原仲麻呂は中衛府の兵により道祖王の邸宅などを取り囲ませ、主犯格である小野東人らを捕らえました。

翌7月3日、右大臣の藤原豊成や中納言の藤原永手などが小野東人を訊問します。

小野東人は無実を主張したと孝謙天皇に報告が入ると、孝謙天皇は藤原仲麻呂をそばに置き、謀反の計画者と見られる橘奈良麻呂、大伴古麻呂、塩焼王、安宿王(あすかべおう.長屋王の五男)、黄文王を前にして、
「謀反の計画があると報告を受けているが、自分はその報告を信じない」
との宣明を読み上げました。

尋問を行っていた右大臣の藤原豊成は自白を引き出せなかったため訊問担当から外されると、再度中納言の藤原永手たちにより小野東人たちは拷問にかけられ訊問されました。

この拷問により東人たちは一転して謀反の計画を自白したのでした。

計画の内容は、橘奈良麻呂、大伴古麻呂、安宿王、黄文王が兵により藤原仲麻呂邸を襲って暗殺。

その後、仲麻呂の私邸を住居としていた大炊王をその場から撤退させると、次いで皇太后の宮を包囲して、当時の情報伝達の最速手段であった駅馬を使うのに必要となる駅鈴(えきれい)と、天皇が公式に用いる印章である玉璽(ぎょくじ)を奪う。
(これらを奪うのは、駅鈴と玉璽があれば天皇の権威を発令できるからでした。)

最後に、右大臣豊成を奉じて天下に号令し、孝謙天皇を廃位させたうえ、塩焼王、道祖王、安宿王、黄文王の中から天皇を推戴するというものでした。

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橘奈良麻呂の乱に関係した主要な人物の処罰

橘奈良麻呂の計画に賛同した皇族・貴族は757年7月4日に捕まりました。
中納言の藤原永手により訊問が行われると、次第に全員が謀反について白状しました。

首謀者の橘奈良麻呂は、
「大仏造仏後の東大寺造営などで民が苦しんでいるのは政治が無道だからという思いから反乱を企てた」
と藤原永手に打ち明けました。

尋問が終わり獄に移されると、主犯格だった者は拷問を受けることになります。
拷問は、藤原永手、百済王敬福(くだらのこにきしきょうふく)、大炊王の兄にあたる船王の監督のもとに、杖による全身打ちが行われました。

元皇太子の道祖王、黄文王、大伴古麻呂、小野東人は、捕まった同日、過酷な拷問に耐え切れずに絶命しました。
「続日本紀」には首謀者の橘奈良麻呂が罪人の名に記載されていないものの、他の主犯格の皇族・貴族たち同様に拷問死したと考えられています。

主犯格以外にもこの乱により処罰された皇族・貴族は多くありました。

皇族では、安宿王が佐渡島に妻子とともに流罪となりました。
弟の黄文王に誘われて謀議に参加させられただけで、事情はわからなかったと尋問で回答するも、その嫌疑は晴れなかったため、杖打ちの拷問にはならなかったものの、流罪とされたのでした。

ただ、称徳天皇在位中の770年に大赦により皇籍に戻されたと見られ、光仁天皇即位後の773年、高階真人(たかしなまさと)姓を与えられ臣籍降下しました。

道祖王の兄で新井田部親王の皇子であった塩焼王にも嫌疑がかかりました。
しかし、反乱計画に直接関与はしておらず、謀議にも参加していなかったため、孝謙天皇からは実弟の道祖王の罪の連座により遠流相当であるものの、亡くなった父の新井田部親王の忠節を思い罪には問わないと詔が出され、塩焼王自身は不問となりました。
その後臣籍降下し、氷上真人(ひかみまさと)姓が与えられました。

貴族では、橘奈良麻呂が当初から声をかけて拒んでいた佐伯全成が、直接関与はしていなかったものの、これまでの経緯を自白したうえで自害しました。
この他にも、この事件に連座して流罪や官職をはく奪されるなどの処罰を受けた者は、総勢443人にのぼる大きな事件となりました。

また、この事件の発覚までの対応に不備があった右大臣の藤原豊成は大宰府の役人、普段から橘奈良麻呂と親しかったという理由だけで、藤原豊成の息子である藤原乙縄(ふじわらのおとただ)も日向国の地方官へと左遷されました。

この事件を経て、藤原仲麻呂は、自分の政敵や不満を持つ者を一掃し、権力を掌握しました。
橘奈良麻呂が危惧していた藤原仲麻呂体制の確立は阻止できず、仲麻呂は760年に太政大臣にまで昇りつめるきっかけを与えてしまう事件になってしまったのでした。

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謀反人橘奈良麻呂が正一位太政大臣へ

橘奈良麻呂が獄死した際、奈良麻呂の妻は妊娠していました。
758年に、橘奈良麻呂の子 橘清友(橘浄友|たちばなのきよとも)が誕生します。

橘清友は32歳という若さで病により亡くなりますが、生涯多くの子どもに恵まれました。
その中の一人に、橘嘉智子(たちばなのかちこ)がいました。

時期は不明ですが、嘉智子は第50代桓武天皇(かんむてんのう。737年~806年、在位781年~806年)の第五皇子である神野親王(かみのしんのう)に入侍します。
809年6月、神野親王が第52代嵯峨天皇(さがてんのう。。786年~842年、在位809年~823年)として即位すると、嘉智子は嵯峨天皇の夫人となりました。

嵯峨天皇は即位時に、異母兄弟に当たる高津内親王(たかつないしんのう)を妃としていましたが、原因は正史に残されておらず不明ですが、後に妃を廃します。
身分の低い出自の夫人が生んだ嵯峨天皇の皇子たちは、臣籍降下させていたため、夫人の中で皇位継承資格を持つ皇子は橘嘉智子の産んだ皇子だけとなっていました。

これにより、橘嘉智子は815年7月に立后され、嵯峨天皇の皇后である檀林皇后(だんりんこうごう)となりました。

皇后となったことで亡き父の清友は、生前の正五位上から従三位の追贈を受けました。

また833年に嵯峨天皇と檀林皇后の子である正良親王(まさらしんのう)が第54代仁明天皇(にんみょうてんのう。810年~850年、在位833年~850年)として即位すると、清友は外祖父となったため、正一位の贈位を受け太政大臣の官職が贈られました。

この追贈は、外祖父となった橘清友だけに留まらず、後の847年に外祖父の父であった橘奈良麻呂にも与えられることになり、謀反人だった橘奈良麻呂にも正一位が贈位され太政大臣の官位が贈られたのでした。

政敵であった藤原仲麻呂は謀反により太政大臣の地位も名誉も失いましたが、藤原仲麻呂のために謀反人となり処罰されて亡くなった橘奈良麻呂は、太政大臣の地位を手に入れたことで、死後に立場が逆転したのでした。

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