弥生時代とは?何年前?いつからいつまで?

弥生時代とは

弥生時代は大陸から米作りと金属の道具が伝わり、生活が現代的になった時代です。縄文時代は狩りをしたり、木の実を採ったりなど、自然にあるものからしか食糧を手に入れることができませんでしたが、弥生時代は大陸から伝わった稲作によって、自分たちで食糧を作ることができるようになりました。さらに、道具も石でできた石器から青銅や鉄で出来た金属器に変わることで、より耐久性が高く使いやすいものになりました。

こうして、自分たちで食糧を作れるようになり、高度な道具を使うようになった時代、それが弥生時代です。

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弥生時代の時期

弥生時代の時期に関しては、弥生時代の始まりについて、様々な意見があるため、実ははっきりとわかっていません(※1 弥生時代の年代について)。ここでは「紀元前5世紀~紀元3世紀頃」という説に基づいて紹介します。
弥生時代は土器の形状などから早期、前期、中期、後期の4期に分けられるのが一般的です。

弥生時代 早期

弥生時代の早期は紀元前5世紀頃とされています。この時期は縄文時代から弥生時代への移り変わりの時期とされており、突帯文土器(とったいもんどき)と呼ばれる土器が使われていました。突帯文土器は土器の縁の部分に突帯という粘土の帯を巻き付けてあるのが特徴です。代表的な突帯文土器は九州で発見された夜臼式(ゆうすしき)土器です。

■突帯文土器

画像:福岡市埋蔵文化財センター 夜臼甕

弥生時代 前期

弥生時代の前期は紀元前5世紀~紀元前2世紀頃とされています。この頃は突帯文土器から遠賀川式(おんががわしき)土器と呼ばれる土器へ移り変わる時期です。遠賀川式土器というのは九州北部にある遠賀川という川の周辺で発掘された土器のことで、西日本全土で広く使われていました。(詳細は「遠賀川式土器について」に記載)

■遠賀川式土器

画像:豊橋市美術博物館 遠賀川式土器

弥生時代 中期

弥生時代の中期は紀元前2世紀~紀元1世紀頃とされています。中期の代表的な土器は櫛描文(くしがきもん)と凹線文(おうせんもん)の2種類あります。櫛描文は、櫛を使って描かれたような平行線の模様から櫛描文と呼ばれて、弥生時代中期の前半に利用されていました。
凹線文は、棒などを押し付けた状態で回転させ、一部を凹ませてできた土器です。弥生時代中期の後半に利用されていたと考えられています。

■櫛描文土器
櫛描文土器

画像:安城市 土器の文様の話

■凹線文土器
凹線文土器

画像:安城市 土器の文様の話

弥生時代 後期

弥生時代の後期は紀元1世紀~3世紀頃とされています。後期になると土器の模様が無くなり、形状もシンプルなものになっていきます。

■弥生時代後期の土器
弥生時代後期の土器

画像:日本の歴史

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※1 弥生時代の年代について
弥生時代の年代は、弥生時代の中期以降は比較的正確な年代とされています。これは、弥生時代中期以降は年代のわかる青銅器と土器が共に見つかることがあるためです。

弥生土器中期の北九州には副葬(ふくそう)という風習がありました。副葬は、亡くなった人を甕棺(かめかん)と呼ばれる人が入る程の大きな土器に入れ、更にその甕棺の中にその人が身に付けていたものや土器、青銅器なども共に入れて埋葬をすることです。この青銅器の多くは大陸から持ち込まれたものですが、この頃の大陸には既に文字や書籍があり、実年代がわかる資料があります。青銅器の形によっては、ある程度正確な年代がわかるものもあるため、副葬品に含まれる青銅器から実年代を推定することが可能なのです。

しかし、そういった青銅器が発見されるのは弥生時代中期、古くとも弥生時代前期の末頃以降で、それより以前についてはハッキリとはわからないため、多くの推論や研究がなされている状態です。

特に弥生時代が始まったとされる年代については、現在大きく2つの意見に分かれています。一つは昔から言われてきた紀元前3世紀~紀元前5世紀頃に始まったという説、もう一つは2003年に国立歴史民俗博物館によって提唱された紀元前10世紀頃に始まったという説です。その差は実に500年ほどにもなります。ここまで意見が分かれる大きな原因は年代の推定方法によるものです。

従来、弥生時代の年代推定には土器編年(どきへんねん)というものが使われていました。土器編年というのは、出てきた土器の順番を並べて年表の様に並べたものです。この編年表を作るには層位学(そういがく)や型式学(けいしきがく)というものが用いられます。層位学は土器が発掘された地層の深さから土器の古さを推定するものです。同じ地域では土器は古いものほど下の層に埋まっています。

そのため、出てくる土器の深さによって「この土器は他の土器よりも古い(あるいは新しい)」ということがわかります。型式学は土器の形状や模様などから共通点を見つけ、型式と呼ばれるいくつかのグループに分けるものです。この層位学と型式学を組み合わせることで、様々な土器の順番を推定することが可能です。

■層位学と型式学のイメージ


画像:J-CASTニュース ミニッツシンキング

ただし、この方法でわかるのはあくまで順番だけであり、実際の年代というのはわかりません。ここから実際の年代を知るためには、土器と共に発掘される実年代のわかる青銅器などから推定する必要があります。実年代のわかる土器より古い土器については「一つ古い型式の土器については、○○年は古いだろう」という推測の元、各土器の年代を決定していくのです。その結果、最古の弥生土器とされるものは紀元前3~5世紀頃であるだろうと考えられてきました。ちょうどその時期は、中国で大きな戦もあり、日本に人々が流入して稲作や青銅器などを伝えたと考えると辻褄も合ったのです。ところが、この方法は「一つ古い型式の土器は○○年くらい古いだろう」という推定が間違っていると大きくずれてしまいます。例えば年代がわかる土器Aから弥生時代最古と考えられる土器Bまでの型式が5種類あったとして、「1つの型式につき20年くらいは古くなるだろう」と推測していた場合、土器Bは土器Aから100年くらい古いものになります。

しかし、実際は1つの型式につき、100年古いものだったらいかがでしょう?土器Bの年代は土器Aより500年も古いものになってしまいます。誤差400年です。このように、この推定方法は従来使用されてはきましたが、実際の年代と異なる可能性も十分にあったのです。また、この方法は同じ地域でしか使えないというデメリットもあります。

弥生土器の特徴は地域ごとに異なりますが、似た特徴を持った土器が同じ時期のものなのかどうか、ということはハッキリとはわかりません。遠く離れている場合は、どちらの方が先にできたものなのか、そこに伝わるのにどれだけの時間がかかったか、ということも推測に頼るしかないのです。

一方、国立歴史民俗博物館の年代推定方法は、放射性炭素(ほうしゃせいたんそ)14C測定法というものを用いて推定されたものです。土器に付着していた穀物の煮焦げなどから、炭素14(Carbon-14)の数を測定することで年代を直接推定するという方法で、この方法により弥生時代最古の土器は3000年ほど前、つまり紀元前10世紀頃のものだという結果が出たのです。

しかし、この方法にも欠点があります。それは、「大気に含まれる炭素14(Carbon-14)の濃度が一定である」という仮定のもとで計算されていますが、実際は炭素14(Carbon-14)の量は年代や場所によって異なるため一定ではない、ということです。そのため、こちらの計算も完全に正しい結果であるとは言い難く、意見が分かれています。

さらに、そもそも「何をもって弥生時代とするのか」、という定義自体が曖昧だということも弥生時代の年代を決めかねる大きな要因です。例えば、弥生時代を「稲作が始まった時から」とするか、「稲作が浸透した時から」とするかで、弥生時代の開始年代は大きく変わります。「稲作が浸透した時から」とした場合は、何を持って浸透したと言えるのかも曖昧です。

稲作は日本全土で一斉に始まったわけではなく、九州から中国・四国、関西方面に向かって徐々に拡がったものとされていますので「稲作が浸透した時から」とした場合は、何を持って浸透したと言えるのかも曖昧です。このように定義が曖昧なことも弥生時代の開始年代が決まらない理由だと考えられます。

こういった理由により、弥生時代の開始年代についてはっきりとした結論が出ていません。
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弥生時代 始まりのきっかけ

弥生時代の始まりのきっかけは大陸(中国や朝鮮半島)から稲作と金属器が伝わったことです。

稲作と金属器が日本に入ってきたことで、日本人の生活は大きく変わっていきます。

大陸から稲作が伝わった理由については、中国の戦国時代による影響ではないかという説があります。中国大陸は紀元前403~紀元前221年まで戦国時代でした。戦乱の影響によって中国から朝鮮半島や日本など近隣の地域へ人の移動が起きます。

その結果、農耕文化を持った人々が九州にまでやってきて、その人々(渡来人)によって稲作が伝えられたのではないか、という説です。この説は弥生時代が紀元前3~5世紀頃に始まったという土器編年から推測した説とも辻褄が合うため、長い間信じられてきました。ただし、弥生時代の開始年代が紀元前10世紀頃であるという国立歴史民俗博物館の説が正しかった場合には成り立たないため、あくまで仮説と言えるでしょう。

また、九州に伝わった稲作が九州だけにとどまらず日本の広い範囲に根付いたのには2つの理由があると考えられています。1つは稲という作物が日本の気候に適していたこと、もう1つは日本では縄文時代からクリなどの栽培を行っていたため、植物栽培の基盤ができていたことです。これらの理由により、日本の広い範囲で稲作が広まり、弥生時代となりました。

稲作は大陸から九州へ伝わったと考えられていますが、そのルートに関しては諸説あり、まだはっきりとわかっていません。現在、代表的な説は以下の3つです。

■稲作が伝わったとされるルート

参照:本とHPのリレーションによる学習支援

A:朝鮮半島経由ルート(中国→朝鮮半島→九州)
B:対馬暖流ルート(中国→九州)
C:黒潮ルート(中国→台湾→沖縄→九州)

Aの説は国立歴史民俗博物館の教授などから支持されている説です。Bの説は農林水産省のHPにていちばん有力であるとされている説(参照「農林水産省 お米が入ってきたルートを教えてください」)、Cの説は「日本民俗学の開拓者」と呼ばれた民俗学者の柳田國男氏により提唱された説です。

このようにルートについては、まだハッキリとしたことはわかっていないものの、いずれの説でも日本には最初に九州地方に伝わり、その後、日本の東側へ向かって伝わっていったということは共通の認識です。

また弥生時代の大きな特徴の一つとして、大陸から稲作だけでなく、金属器も伝わります。金属器というのは鉄や青銅と言った金属でできた道具のことですが、実は世界的に見ると鉄でできた鉄器と青銅でできた青銅器が同時に伝わるというのは珍しいことです。

青銅器は鉄器に比べて低い温度で製作できるためですが、鉄より耐久性や硬さが低いという特徴がありました。そのため、世界の他の地域では、まず簡単に作れる青銅器の時代があり、鉄を作ることができるようになると実用性に優れた鉄器の時代が訪れるようになります。

しかし、日本では弥生時代に鉄器と青銅器が同時に伝わりました。そのため、より実用性に優れる鉄器は農具や武器などの実用的な道具に使われるようになり、見た目が綺麗で神秘的な青銅器は祭祀などに使われるようになるなど、自然と使い分けがなされていきました。

こうして伝わった金属器、中でも鉄製の農具は稲作の効率を大幅に上げたため、農耕社会の普及に拍車をかけたのでした。

このように大陸から稲作と金属器が伝わったことで日本には農耕社会が根付くことになります。大陸からの文化を持った渡来人と、もともと日本に住んでいた縄文人の文化が合わさることで、農耕文化を基盤とした弥生時代と呼ばれる時代へ移行していったのです。

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