弥生時代 名前の由来、北海道と沖縄の文化、埋葬方法、遺跡

弥生時代 名前の由来、北海道と沖縄の文化、埋葬方法、遺跡

弥生時代 名前の由来

縄文時代は、縄をころがしたような「文様(模様)」の入った土器が見つかったので縄文時代と名づけられましたが、弥生時代という名前は、1884年に1個の壺(土器)が見つかった地名が由来となっています。

すなわち壺は、当時の東京府本郷区向ヶ丘弥生町(現在は東京都文京区弥生)にある貝塚で発見されましたが、それまで知られていた縄文時代の土器とは異なる特徴を持った土器だったために、発見場所にちなんで「弥生土器」と名付けられました。

よって、この壺の発見までは縄文時代と弥生時代という時代の区分はありませんでした。

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弥生時代の埋葬方法

弥生時代の特徴の一つに埋葬方法があります。ただ、地域により方法が異なり、以下で紹介する埋葬方法が日本全国で同じだったわけではありません。

①共同墓地への変化
縄文時代はそれぞれの住居のそばに墓地をつくっていましたが、弥生時代は集落の近くに共同墓地を作り、そこに遺体を埋葬するようになりました。

②屈葬(くっそう)から伸展葬(しんてんそう)へ
縄文時代との違いとして、屈葬から伸展葬へ変わったことが挙げられます。縄文時代の遺跡からは、足を曲げた状態で埋葬される「屈葬」という方法で埋葬された遺骨が多く出ています(理由は諸説あり、ハッキリしたことは不明です) 。

しかし弥生時代になると、「伸展葬」という足を伸ばしたまま埋葬された遺骨が多く出てくるようになりました。

③様々な墓
弥生時代には、お墓の種類も増えました。

・甕棺墓(かめかんぼ)
九州北部で発達した甕棺という埋葬専用の大型の土器に遺体を入れて葬る方法です。
甕棺は他の土器と同様いくつかの型式があり、その型式から年代を測定するのにも用いられたりします。
甕棺墓亡くなった人が身に付けていたものや土器、銅鏡などを遺体に添えたりしていることがあります。

■甕棺墓

・支石墓(しせきぼ)
支石墓は基礎となる支石を並べ、その上に大きな石をかぶせるお墓です。支石墓の下には甕棺墓などの棺があります。
支石墓も九州北部で見られるもので、中国北東部や朝鮮半島にも同様のお墓があったことがわかっています。そのため九州北部が中国や朝鮮などの大陸側と多く交流していたことが伺えます。

■支石墓
支石墓

画像:石川晶康 日本史B講義の実況中継

・墳丘墓(ふんきゅうぼ)
墳丘墓は土や石を積み重ねて丘のような形にしたお墓です。これは九州から関東地方にまで幅広く普及したお墓の形式で、特に四角い墳丘墓の周囲を浅い溝で囲んだ方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)と呼ばれる形が有名です。墳丘墓は古墳時代の古墳と区別するために弥生墳丘墓(やよいふんきゅうぼ)と呼ばれることもあります。

■方形周溝墓

画像:石川晶康 日本史B講義の実況中継

北海道の文化と沖縄の文化

弥生時代は日本の時代区分ですが、その文化は、日本全域に広がったわけではありませんでした。この弥生時代が広がらなかった場所、それが現在の北海道と沖縄です。

本州が弥生時代と呼ばれる時代の間、北海道と沖縄はそれぞれ「続縄文文化」、「貝塚文化」と呼ばれる独自の文化を形成していました。これは北海道、沖縄が孤立していたわけではなく、気候による条件などから稲作による生活を選択しなかったものと考えられます。

[北海道] 続縄文文化
北海道では稲作は受け入れられず、縄文時代から続く狩猟・漁労・採取を基礎とする文化が続いていました。
土器も縄文時代の特徴を強く残したものが使われており、この時代は紀元後7世紀頃まで続きました。続縄文文化の沿岸地域では特に漁労が発達していたことがわかっています。

尚、北海道では7世紀以降も擦文文化(さつもんぶんか)と呼ばれる独自の文化が発達していきます。

[沖縄] 貝塚文化
沖縄地方でも稲作は受け入れられませんでした。沖縄では漁労・採取を中心とした貝塚文化が紀元後11~12世紀に至るまで続きました。

食糧に関しては、特にサンゴ礁内での漁労に重点がおかれ、同時に貝の採取も活発に行われていました。これは九州北部との交易に用いられていたと考えられています。

尚、沖縄も貝塚文化以降も独自の文化が続き、この後はグスク時代と呼ばれる時代に突入していきます。

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弥生時代の遺跡

登呂遺跡(とろいせき)

登呂遺跡は静岡県にある弥生時代後期の遺跡です。第二次世界大戦中の1943年、軍事工場建設の際に発見されました。

1947年の発掘調査で、日本で初めて弥生時代の水田跡が発見された遺跡として有名です。国の特別史跡に指定されています。

吉野ケ里遺跡

吉野ケ里遺跡は佐賀県にある弥生時代の環濠集落を代表する遺跡です。国内最大規模の大規模な環濠集落の遺跡で、弥生時代後期の最盛期には面積40ha以上、約5,400人もの人々が住んでいたと推測されています。

この地域には縄文時代から人が住んでいたと推定されており、弥生時代にかけて次第に大規模な集落へと発展したものと考えられています。国の特別史跡に指定されています。

吉野ケ里遺跡

紫雲出山遺跡は香川県にある弥生時代中期の遺跡です。

標高352mの紫雲出山山頂に位置する高地性集落の代表的な遺跡で、341個もの大量の石の鏃(やじり)(矢の先端に付ける武器)が見つかったことから、軍事的な役割を持っていたのではないかと考えられている集落跡です。国の史跡に登録されています。

画像:SETOUCHI FINDER とっておきのビュースポット!弥生時代の遺跡と瀬戸内海を180度独り占めできるカフェ/紫雲出山遺跡館

荒神谷遺跡

荒神谷遺跡は島根県にある弥生時代の遺跡です。頭に地名である神庭(かんば)をつけて「神庭荒神谷遺跡(かんばこうじんだにいせき)」と呼ばれることもあります。

この遺跡では358本もの銅剣・6個の銅鐸、16本の銅矛が見つかったことで有名です。これは1984~85年の調査で発掘されたものですが、当時の日本国内で発見されていた銅剣の総数は300本余りであり、1箇所からそれを超える数の銅剣が発掘されたとして大きな出来事となりました。国の史跡に登録されています。

■荒神谷遺跡で発見された銅剣358本

砂沢遺跡

砂沢遺跡は青森県にある弥生時代前期の遺跡です。日本最北、東日本最古の弥生時代の水田跡が見つかった遺跡として有名です。東日本の初期弥生文化の実態を知る上で重要な遺跡です。

画像:日本の歴史 砂沢遺跡

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