縄文時代。縄文人の生活、衣食住。天皇は?
日本史を習う上で一番最初の時代である縄文時代。しかし、その全貌はまだわからず非常に謎が深い時代でもあります。
そんな縄文時代ですが、果たしてこの時代の日本人は一体どんな暮らしを送っていたのでしょうか?
今回はそんな日本の歴史のあけぼのである縄文時代について見ていきたいと思います。
縄文時代とは?
縄文時代は人間の生活がガラリと変わった時代です。縄文時代までの時代を旧石器時代と言いますが、この時代の人々は石の斧を持ってマンモスを追いかけたりするような、いわゆる「原始人」の生活をしていました。
この生活が、土器や弓矢と言った道具の登場によって大きく変わっていった時代、それが縄文時代です。
縄文時代の時期
縄文時代は16,000~12,000年前から2,800~2,300年前までの期間とされています(※1)。
縄文時代の期間は1万年以上と長く、草創期(そうそうき)、早期(そうき)、前期(ぜんき)、中期(ちゅうき)、後期(こうき)、晩期(ばんき)と6つの期間に分けられています。
なぜ、このように分けられているのかというと、同じ縄文時代の中でも土器の形状や模様が時期によって違うからです。
一口に「縄文時代」と言っても、1万年以上もの長い間、人間の暮らしや道具が変化してこなかったわけではありません。土器の形状がその良い例で、時代の中で変化してきました。学者たちはその土器の形状や種類によって、縄文時代を6つに区分したのです。
(1)草創期
草創期は約16,000~11,000年前の期間とされています。(「Wikipedia 縄文土器」より)
草創期の土器には、縄文時代の名前の由来となった縄の跡のような模様(縄文)はありませんでした。この時代の土器として、爪型文(つめがたもん)という人の指の爪の跡がついたもの(左図)や隆起線文(りゅうきせんもん)という土器の口の部分が紐で装飾されたような模様のもの(右図)などが発見されています。
土器の形状については、食べ物を煮炊きするために底が深い深鉢(ふかばち)形状でした。
・爪型文土器と隆起線文土器
(2)早期
早期は約11,000~7,200年前の期間とされています。(「Wikipedia 縄文土器」より)
早期の土器の特徴は、何と言っても縄文と呼ばれる縄の跡のような模様が出てきたことです。単純に縄を転がして出来る縄文をはじめとして、棒状のものに山型の彫刻などをして転がして出来る押型文(おしがたもん)という模様もありました。
形状は草創期と同じように深鉢形状ですが、先端が尖った尖底(せんてい)深鉢土器になりました。これは、先端を地面に差し込んで安定させて使うためだったと考えられています。
・縄文土器と押型文土器
・縄文(左)と押型文(右)
(3)前期
前期は約7,200~5,500年前の期間とされています。(「Wikipedia 縄文土器」より)
前期の土器の模様は早期と変わらず縄文でしたが、形状については少し異なるものが現われます。
この時代には深鉢形状の他に盛り付けに用いられたと考えられる底の浅い浅鉢(あさばち)形状の土器が出てきました。
また、深鉢形状の中でも少し形が変わります。底は平たく地面に置いても安定して使えるようになり、口の部分は波打つような波状口縁(はじょうこうえん)になりました。
・早期の浅鉢(左)と深鉢(右)
画像:あんなこんなそんなおんな 昔昔のその昔、大学受験の日本史を極めるブログ
(4)中期
中期は約5,500~4,700年前の期間とされています。(「Wikipedia 縄文土器」より)
中期は土器の模様が最も装飾的になった時期で、立体的で複雑な模様が施されるようになりました。燃え盛る炎を表現したような火焔型(かえんがた)土器といったものも見つかっています。
形状については中期と同様、深鉢や浅鉢といった形でした。
・火焔型土器
(5)後期
後期は約4,700~3,400年前の期間とされています。(「Wikipedia 縄文土器」より)
後期の土器の模様は装飾性の高かった中期のものよりは落ち着きます。磨消縄文(ましょうじょうもん)という縄文と無文が交互に現れるような、中期よりも洗練された模様が流行しました。
形状についても、深鉢、浅鉢だけでなく急須のようなかたちの注口(ちゅうこう)土器などが現れるようになりました。
・磨消縄文模様(左)と注口土器(右)
画像:あんなこんなそんなおんな 昔昔のその昔、大学受験の日本史を極めるブログ
(6)晩期
晩期は約3,400~2,800年前の期間とされています。(「Wikipedia 縄文土器」より)
晩期の土器の模様は後期と同じく磨消縄文がよく使われていましたが、さらに精巧で芸術性の高い土器も登場します。その代表的なものが青森県の亀ヶ岡(かめがおか)遺跡で発見された亀ヶ岡式土器です。
形状は深鉢、浅鉢、注口土器の他に壺型のものが現れるようになりました。
また、土器のサイズも無駄に大きくせずに小型化され、用途に合わせて洗練された形状になっていきました。
・亀ヶ岡式土器
※1 縄文時代の年代について
縄文時代の年代については、大きくバラついています。これには3つのことが関係していると考えられます。1つ目は年代の測定方法、2つ目は発掘の進歩、3つ目は「そもそもいつからが縄文時代なのか?」という問題です。
まず、1つ目の年代を測定する方法についてですが、縄文時代の年代を測定する方法は複数あります。代表的な測定方法は放射性炭素(ほうしゃせいたんそ)14C測定法と呼ばれるものです。生物に含まれる放射性炭素14Cという物質は、生物が死亡すると減少し始め5730年でちょうど半分になります。この原理を利用して、生物の死骸に含まれる放射性炭素の量を調べることで、その生物がいつ死んだのかを測定する方法です。この方法を利用すると、貝塚(かいづか)と呼ばれる縄文時代のゴミ捨て場から出てきた貝殻などの年代がわかります。他にも同じような原理を利用して、火山岩に含まれるウランの量を測定するフィッション=トラック法や、カリウムの量を測定するカリウム=アルゴン法などもあります。また、最近では木材の年輪を調べることで年代を測定する年輪年代測定法と言った測定法も発達してきています。このように測定方法は多くあり、測定される年代がバラつく理由になります。それに加え、これらの測定方法は残念ながら完璧ではありません。例えば、代表的な放射性炭素14C測定法でも、「大気に含まれる14Cの濃度が一定である」という仮定のもとで計算されていますが、実際は14Cの量は一定ではありません。しかし、他の年代測定方法と組み合わせるなど日々の研究の成果により、過去の年代の精度はどんどん上がっています。つまり、同じ測定方法でさえその方法が進歩することで、異なる年代になったりするのです。この測定方法による問題が、バラつきが大きくなる理由の一つです。
2つ目の発掘の進歩によるものですが、テレビや新聞などで、「世界最古の○○発見!」というようなニュースを見たことがあるかと思います。発掘の進歩によりこういった新しい発見があると、それまでの歴史は大きく変わります。「縄文時代が始まったのは最古の土器が発見された12,000年前」とされていたところに、「16,000年前のものと思われる土器が発見された!」となれば、縄文時代の始まりは16,000年前となるのです。新たな遺跡の発掘や調査は今もいろんな場所で行われているため、新たな発見がある度、縄文時代の年代のバラツキは大きくなります。
3つ目は「そもそもいつからが縄文時代なのか?」という問題です。「縄文時代」と呼ばれるようになった由来は、アメリカ人のエドワード・S・モースと言う動物学者が、1877年に東京にある大森貝塚(おおもりかいづか)から発掘した土器をCord Marked Pottery(縄の模様の陶器)と報告したところからです。これを日本人が「縄文土器」と訳すようになり、この土器が使われた時代を縄文時代と呼ぶようになりました。この縄文時代と言う呼び名が定着したのは戦後で、比較的最近のことです。その後、縄文時代というのは「縄文土器が使われた時代の名前」だったものが、次第に「土器や弓矢、磨製石器の作成や定住生活をするようになった時代」といった生活内容の特徴を示す言葉になっていきました。このように「いつから縄文時代とするのか?」という定義は少しずつ変わっているため、縄文時代の年代は変化しています。
このように、縄文時代の年代は新しい情報が発見される度に更新されたり、人によって異なったりするため、年代はあくまで現時点でのものという認識となります。
縄文時代が始まったきっかけ
旧石器時代から、縄文時代に入ったきっかけは環境の変化です。何が起こったのかと言うと、気温が大きく変わったのです。平均気温は現在より約10℃も上昇しました。気温が上がることで、地形やそこに暮らす生物たちにも影響が起きました。
なぜ、このような温度の変化(温暖化)が起きたのかというと、特別な出来事があったわけではありません。地球は長い周期で、寒い時期と暖かい時期を繰り返しています。この寒い時期を氷期(ひょうき)、温かい時期を間氷期(かんひょうき)と言い、これらは約10万年周期で交互に起こっているのです。
ちなみに、現在は間氷期に当たりますが、今の間氷期が始まったのがちょうど縄文時代が始まったとされる約15,000年前頃なのです。(少し難しい言葉になりますが、地質時代でいうと、前回の氷期を更新世(こうしんせい)、現在を含む間氷期のことを完新世(かんしんせい)といいます。)
このように約15,000年前、現在の間氷期に入って地球全体の気温が上昇したことにより、今の日本列島の地形ができ、日本列島に生きる植物や動物も変化しました。
(1)地形
気温が高くなったことで、日本周辺の地形は大きな影響を受けました。地球全体の気温が高くなると海氷が融けます。海氷が融けると地球全体の海面が上昇し、それまでユーラシア大陸と陸続きであった日本は大陸から分断され、現在の日本列島に近い形となりました。
・旧石器時代の地形
画像:ナウマンゾウハンター
実際、約20,000年前の寒い時期は現在よりも海面が120mも低く、温暖化が進行したことで現在の海面の高さになったとされています。
この海面の上昇は縄文時代に入ってからも続き、約6,000年前頃にピークを迎えます。これを「縄文海進(じょうもんかいしん)」と言い、ピーク時の海面の高さは現在よりもさらに2~3mほど高かったとされています。
このように海面が高くなることで、日本は海に囲まれるようになりました。
(2)植物
植物は気温の影響を大きく受けます。気温が10℃も変化することで、日本列島に育つ植物の種類も大きく変わりました。
氷期には日本全体を針葉樹(しんようじゅ)という寒さ強い植物が覆っていました。針葉樹は、葉が細く、縦に高く真っ直ぐに伸びる木で、スギやクリスマスツリーでお馴染みのモミの木などです。
間氷期になると、暖かい地域に育つ広葉樹(こうようじゅ)の割合が多くなりました。広葉樹は葉が広く花をつけ、横に広く伸びる木で、ナラやブナなどがこれに当たります。
・針葉樹と広葉樹
暖かくなって日本に針葉樹よりも広葉樹が多くなった理由は、針葉樹と広葉樹の特徴の違いのためです。
植物は光合成により栄養を獲得しており、光合成がしやすい方が生き残るのには有利です。針葉樹は葉っぱが細く、1枚の葉で光合成できる量は少ないのですが、寒さに強いという特徴があります。
一方、広葉樹は寒さには弱いですが、葉が大きいため光合成がしやすいという特徴があります。そのため、寒い場所では寒さに強い針葉樹が生き残りやすくなります。
しかし、暖かい場所になると光合成がしやすく、より多くの栄養を獲得できる広葉樹の方が生き残りやすくなるのです。
具体的には寒い時期の日本にはトウヒやモミと言った針葉樹がほとんどでしたが、暖かくなるとそれらの針葉樹は北海道や東北など、より寒い場所にのみ生えるようになりました。
暖かくなった東日本ではナラやブナと言った広葉樹が、西日本ではシイなどの広葉樹が生い茂るようになります。ナラ、ブナ、シイはどれも広葉樹ですが、東日本のナラやブナは広葉樹の中でも冬になると葉を落とす落葉広葉樹(らくようこうようじゅ)、西日本のシイなどは、冬でも緑の葉っぱがついている照葉樹(しょうようじゅ)と呼ばれる広葉樹です。落葉広葉樹の方が、照葉樹に比べ寒さに強いため、日本の中でもより寒い東日本には落葉広葉樹が多くなりました。
このように温暖化の影響を受け、日本全体を覆っていたトウヒやモミは北海道や東北などを中心に生えるようになり、東日本ではナラやブナなどの落葉広葉樹が、西日本ではシイなどの照葉樹が多く生えるようになりました。
(3)動物
動物についても、気温の上昇により大きな変化がありました。それまで狩りの主な獲物であった大型の動物たちが絶滅してしまったのです。大型の動物が絶滅してしまった主な理由は、温暖化による環境の変化に適応できなかったためとされています。
まだ、寒い時期には日本列島の南側は朝鮮半島と陸続きになっており、アジア方面から渡ってきたナウマンゾウやオオツノジカといった大型の動物が生息していました。
また、北側は現在のロシアと陸続きになっており、マンモスやヘラジカと言った大型動物も北海道の辺りまで進出してきていました。これらの動物が温暖化による環境の変化について行けずに絶滅してしまったのです。
・縄文時代までに日本列島に生息していた大型動物
画像:後藤和弘のブログ 鹿肉や猪肉を食べる食文化の歴史を想う
このように環境の変化によって、地形や生息する生物が変わり、人間の生活も大きく変わりました。これをきっかけに日本では旧石器時代から縄文時代へと進んでいくのです。
縄文時代における生活の変化
(1) 食・生業(せいぎょう)について
気候の変化で最も影響が大きかったこと、それが食生活と生業の変化です。生業と言うのは生きていくために行う活動のことで、食べ物を手に入れるための狩りなどを指します。気候の変化はそれまでの食糧である大型動物の絶滅と新たな食糧の産出をもたらし、それに伴い生業も変化しました。新たな食糧というのは、中型動物の肉、木の実などの植物、そして魚や貝と言った海産物です。生業はそれまで、狩猟が主だったのですが、木の実などを採る採取(さいしゅ)、魚などを捕る漁労(ぎょろう)が加わりました。
旧石器時代からの重要な食糧である動物の肉は、ナウマンゾウやオオツノジカと言った絶滅してしまった大型動物の代わりにイノシシやニホンシカと言った中型動物の肉に変わりました。
そしてこれを得るための狩猟の質も、それまでとは変わります。大型動物より動きの素早い中型動物が獲物になったことで、それらを捕まえるために弓矢が作られるようになりました。弓矢の登場により、狩りの効率は大きく上がったと考えられています。また狩猟では、弓矢や石器だけでなく落とし穴などの罠が使用されることもありました。
木の実などの食糧については、植物の変化と土器の登場によってその重要性が大きく増しました。まず、針葉樹に変わって育つようになった広葉樹(照葉樹を含む)には木の実をつけるという特徴があります。そのため、現在でも食べられているクリやクルミをはじめ、ドングリやトチの実といった木の実が多く採れるようになりました。ただし、ドングリやトチの実は生のままでは苦みや渋みが多く食べることができません。これを解決した道具が土器で、ドングリなどを土器に入れて煮込み、アクを抜くことで食べることができるようになったのです。食べられる木の実が増えたため、その木の実を採る採取も重要な生業となりました。
木の実と同じく重要性を増した食糧が魚介類です。魚介類については、地形が変化したことでそれまでより多く捕れるようになりました。温暖化により海面が上昇した際、入り組んだ地形の多かった日本では海がかなり内陸の方まで侵入したため、内陸部の人々も魚を捕りやすい環境になりました。さらに、日本の地形は入り組んでおり、海岸部には多くの入り江ができました。入り江は海が陸側をえぐるようにできた地形のことで、多くの魚が集まり水深が浅めで波も穏やかなため、アサリやハマグリといった貝類、マグロやカツオと言った魚類が手に入りやすくなりました。魚介類の捕れる量が増え食糧として重要になると、それに伴い魚を捕る漁労の重要性も増したのです。
肉、植物、魚介類といった豊かな食糧は季節ごとに捕れる時期が異なっていたこともあり、縄文時代の人々は1年を通じて食糧に困ることが少なくなりました。春には野草やアサリと言った貝類、夏にはマグロやカツオなどの魚類、秋には多くの木の実、冬には狩りをすることで動物の肉が手に入るようになったのです。(詳細は以下の縄文カレンダー参照。)
このことは移動生活をする必要がなくなり、定住生活できるようになったことに繋がります。また、新たな食生活には旧石器時代とは異なる道具が必要なこともあり、様々な道具の発展にも繋がりました。
・縄文カレンダー
画像:ナビゲーター日本史B 1 原子・古代~南北朝
(2)住居について
住居については、旧石器時代までは移動生活だったものが、縄文時代に定住生活に変わりました。これは食糧の変化に伴うものです。旧石器時代まで移動生活をしていたのは、狩りの中心的な獲物である大型動物の移動に合わせていたためでした。しかし、その大型動物が絶滅してしまったこと、また動物以外の木の実や魚介類などを食糧として確保できるようになったことから、移動する必要がなくなったのです。
旧石器時代の人々は洞穴で暖を取ったり、テントのようなものを簡単な住まいとしたりして移動しながら暮らしていましたが、縄文時代に入ると、移動生活をしなくなり竪穴住居(たてあなじゅうきょ)と呼ばれる家に住むようになりました。1つの家には3~5人が住んでいたとされ、近くにはいくつかの家がまとまり、一集落約5~6件程度で暮らしていたとされています。
集落が形成されるようになった理由は、家づくりを行うのには一家族ではなく近くに住む他の家族の手も借りる必要があったためと考えられています。集落は円状で中央には墓地と広場があり、この広場では祈りなどのまじない的な活動が営まれていました。また広場と住居の外側には食糧を貯える場所や貝塚(かいづか)と呼ばれるゴミ捨て場もありました。
この貝塚には食べた貝の殻や壊れた土器などが埋められており、遺跡として現在でも全国各地で見つかっています。貝塚から出土する土器や貝殻は当時の生活の様子を伝えるとても貴重な資料です。
・縄文時代のモデル村
画像:サイボウズ式 縄文時代、社長も上司もいないのに組織が成立していたってホント? 考古学者と組織の起源をさかのぼってみた
(3)道具について
縄文時代に入って開発された代表的な道具は4つあります。それが①土器、②弓矢、③磨製石器(ませいせっき)、④竪穴住居(たてあなじゅうきょ)です。
①土器
土器は「縄文時代」の名前の由来ともなった「縄文土器」で知られる通り、縄文時代を代表する道具です。
そもそも土器の何がすごいのかと言うと、「食べ物を煮炊きできるようになった」ということです。
縄文時代になると植物の種類が変わり木の実などを食べるようになりましたが、ドングリなどの木の実は生ではとても食べられるようなものではありませんでした。
しかし土器の登場により、木の実を煮込んでアクを取るという調理をすることで、ドングリなども食べられるようになりました。これは非常に画期的なことで、食べられるものが増え、食糧が安定して手に入るようになりました。
このことは縄文時代の人々の定住化にもつながっています。
②弓矢
弓矢は狩猟に使われた道具ですが、弓矢により、縄文時代の人々は動きの速いシカやイノシシといった中型動物を効率よく狩れるようになりました。
狩りの獲物が大型動物だった旧石器時代には、投げ槍・突き槍が狩りの道具の中心でした。しかし、温暖化によって大型動物は絶滅し、狩りの獲物は中型動物が中心になります。中型動物は動きが素早く、投げ槍・突き槍では上手く狩れなかったのでしょう。弓矢は離れた場所から安全に、かつ高い命中率で獲物を捕らえることを可能にしました。
大型動物の絶滅の理由については環境の変化によるものと説明しましたが、この弓矢の登場で乱獲が進み、大型動物が絶滅したのではないか、という説があるほど、弓矢の登場は狩猟の方法を劇的に変えました。
③磨製石器(ませいせっき)
磨製石器は石で出来た石器の一つで、文字通り石を磨いて作った石器です。旧石器時代から存在する石器は叩いて作られた打製石器(だせいせっき)と言いますが、この打製石器を磨いて作ったもの、それが磨製石器です。
磨製石器には磨製石斧(ませいせきふ)や磨石(すりいし)、石皿などがあります。磨製石斧は木の伐採・加工を効率的にし、磨石と石皿は食品の保存性向上に役立ちました。
石斧については、叩いて作られた打製石斧(だせいせきふ)も存在しますが、打製石斧は切れ味を鋭くしようとするほど薄くなり、耐久性が弱くなってしまいます。
そのため、木材を切れるような鋭利な石斧にすると、すぐに壊れてしまうという弱点があり、主な使い方はスコップのように土を掘ったりするために使用されていました。
しかし、磨製石斧はある程度の厚みから、磨いて切れ味を良くしていくため、強度を確保したまま木材を切ることができました。これにより、住居を作る木材の確保・加工が容易になり、住居自体の耐久性も上がりました。
・打製石斧(左)と磨製石斧(右)
一方、磨石と石皿はセットで使用するもので、食品を粉状にするのに使用されていました。使い方は、石皿の上に置いたドングリなどの食材を磨石で粉々に砕くという使い方です。
長野県にある曽利遺跡(そりいせき)からは縄文クッキーと呼ばれる粉末にした木の実から作られたクッキーのようなものを食べた跡も見つかっています。このように食品を粉末にすることで保存性が良くなり、定住化にもつながったとされています。
・磨石と石皿
画像:嵐山町Web博物誌
また、定住化とは関係ありませんが、磨製石器の石棒(せきぼう)も見つかっています。石棒と言うのは男性器を模した石のモニュメントで、呪術的な意味合いで使用されていたとされています。
・石棒
画像:Wikipedia 石棒
ちなみに縄文時代に入っても「打製石器が使われなくなった」わけではなく、「打製石器に加えて磨製石器も使われるようになった」という点は注意が必要です。
④竪穴住居(たてあなじゅうきょ)とムラ
竪穴住居は縄文時代の人間が住んでいた住居です。竪穴住居も縄文時代と聞いて、イメージするものの一つかもしれません。環境が変化し食糧が増えたことで人間は定住生活をするようになり、それまでよりも丈夫な住居をつくるようになりました。
その結果生まれたのが、竪穴住居です。
竪穴住居は地表から50cmほど掘り込んだ空間の上に屋根を乗せた半地下式の住居です。
住居の中には、中央に煮炊きや暖房に使用されたであろう囲炉裏(いろり)があり、屋根を組むための柱が数本立っています。
屋根は、柱の上に放射状に組立てられた骨組みを樹皮で覆い、その上に保温性のある土や通気性の良い茅(かや)を敷いて作られていました。この住居には3~5人が住んでいたとされています。
このような竪穴住居ができたことで、縄文時代の人々は安心して暮らせるようになりました。
画像:お住いのコンサル未来
⑤服装
縄文時代の服装は基本的には麻や動物の毛皮などを使っていたそうです。縄文時代には糸を作ってそれを織るという技術があったため、麻の服などを作ったりすることが可能でした。
縄文時代のその他の特徴
環境の変化によって起こった変化の他にも、縄文時代には次のような特徴があります。
(1)交易
縄文時代にはかなり広範囲で交易が行われていました。これは特定の地域でしか産出されない鉱物などが、それ以外の地域で発見されていることからわかっています。
例えば、国内最大級の縄文時代の遺跡、青森県の三内丸山(さんないまるやま)遺跡では約600km離れた新潟県の糸魚川(いといがわ)で採れるヒスイや、北海道の十勝(とかち)や新潟県の佐渡(さど)、長野県の霧ケ峰(きりがみね)で採れる黒曜石(こくようせき)などが見つかっています。
さらに、関東周辺の遺跡では東京から約180km離れた伊豆諸島の神津島(こうづしま)産の黒曜石や丸木舟(まるきぶね)が多数発見されており、優れた外洋航海技術を持っていたこともわかっています。
このように縄文時代には既に日本中のかなり広い範囲で交易が行われていました。
(2)信仰
縄文時代には信仰があったこともわかっています。
縄文時代の信仰は「全てのものに霊威(れいい)が宿る」というアニミズムと呼ばれる信仰でした。霊威とは人間の知恵でははかり知れない不思議な力のことで、「全てのものに神々が宿っている」という神道(しんとう)の宗教観に繋がっているものです。
こうしたアニミズムの宗教観は女性をかたどった土偶(どぐう)という人形や、男性器を模した石棒(せきぼう)という造形物から伺うことが出来ます。
妊娠や出産を行う女性の身体や、生命の根源となる男性器に対して、「新しい命を司る神秘的なものに霊威が宿っていた」と考えられていた証明と言えるでしょう。
・土偶
画像:Wikipedia 土偶
(3)風習
縄文時代の特徴として実際に行われていた儀式や風習もいくつかあるため紹介します。
①抜歯(ばっし)
その名の通り歯を抜くことですが、この抜歯は成人になったタイミングや結婚など、人生の節目で行われていたと考えられています。
この風習の意味はハッキリと解明されてはいませんが、「自分がどこの集落の人間なのかを示すため」という説や、「大きな痛みを伴う儀式をすることで仲間同士の結束を高めるため」という説など、様々な理由が考えられています。
②屈葬(くっそう)
二つ目は屈葬です。
屈葬とは死者を葬る方法で、遺体の足を屈めた状態にして埋葬することを言います。
縄文時代の遺跡からはこの屈葬の形で葬られた骨が出てきており、屈葬の理由についても「死者の霊が現われることを恐れてこのような形で埋められていた」という説や、「屈めた姿勢が母胎の中の胎児の姿勢と同じで遺体を大地に回帰させていた」という説、「墓穴を掘る労力のかからない方法として屈葬が選ばれていた」など、様々な理由が考えられています。
・屈葬
画像:Wikipedia 屈葬
③環状列石(かんじょうれっせき)
三つ目に環状列石というものが挙げられます。
環状列石はイギリスのストーンヘンジと同様に石が環のような形で並べられたもので、国内最大の秋田県の大湯環状列石(おおゆかんじょうれっせき)をはじめとして、東・北日本に多く残っています。
これらの意味についてもはっきりとしたことはわかっておらず、天文台、お墓、祭祀場など様々な説があります。
・環状列石
画像:秋田フィールドワーク 大湯環状列石(ストーンサークル)・万座遺跡
このように縄文時代には様々な風習・儀式があったことがわかっており、当時の人々の生活を想像させてくれます。
縄文時代の有名な遺跡
全国各地には縄文時代に人々が住んでいたとされる集落の跡が残されています。
次はそんな縄文時代の遺跡について特に代表的な遺跡について紹介します。
大森貝塚(おおもりかいづか)
東京都大田区にある大森貝塚は1877年に明治政府に雇われて日本に来日していたモースが大森駅を過ぎたあたりで偶然発見した貝塚です。
まさしく偶然の産物によって見つけられた大森貝塚ですが、この大森貝塚は日本の考古学の中で始めて発掘調査が行われた遺跡であり、縄文時代の生活の重要の手がかりとなる他にも、日本の考古学発祥の地という意味合いもあります。
ちなみに、この大森貝塚ができた頃に富士山が噴火したとされており、この頃の関東に住んでいた人は海産物を食べて生き延びていたと考えられています。
画像:LINEトラベルjp
三内丸山遺跡(さんないまるやまいせき)
もう一つの縄文時代の遺跡の代表格と言われているのが青森県にある三内丸山遺跡です。
三内丸山遺跡が存在は江戸時代の頃から言われていたそうですが、この付近に野球場を作ろうとしたときに調査を行ってみたら日本最大の縄文時代の遺跡があることが判明し、発掘調査が行われました。
現在は縄文時代を再現した建造物が建てられ、縄文時代の頃はどんな生活を送っていたのかを学べます。
画像:特別史跡 三内丸山遺跡
亀ヶ岡遺跡(かめがおかいせき)
青森県にある縄文時代晩期の遺跡です。
装飾性の高い出土品が多く、遮光器土偶(しゃこうきどぐう)や亀ヶ岡式土器で有名です。
・遮光器土偶(左)と亀ヶ岡式土器(右)
画像:Wikipedia 土偶、大学受験の日本史を極めるブログ
大湯遺跡(おおゆいせき)
秋田県にある縄文時代後期の遺跡です。
環状列石が有名で、大湯遺跡内の万座遺跡(まんざいせき)の環状列石は直径46メートルもあり、日本最大の大きさとなっています。
・万座遺跡の環状列石
画像:秋田フィールドワーク 大湯環状列石(ストーンサークル)・万座遺跡
板付遺跡(いたづけいせき)・菜畑遺跡(なばたけいせき)
ともに九州の遺跡で菜畑遺跡は佐賀県、板付遺跡は福岡県にあります。
どちらも縄文時代の晩期から稲作が行われていたことを示しており、日本最古の稲作集落の遺跡とされています。
縄文時代の頃の天皇について
縄文時代には文字が存在していなかったとされ、そのため縄文時代の頃の日本を表した文書はありません。古事記には縄文時代のちょうど終わりぐらいである紀元前660年に神武天皇が奈良県橿原神宮にて即位したと記されています。
神武天皇は日本の総氏神である天照大神の子孫として日本の統治を任され、宮崎県の高千穂に降り立ち橿原神宮にて即位したとされていますが、古事記は神話的要素が非常に高く、存在を裏付けるような証拠が存在していないというのが現状です。
その後、10代目の崇神天皇までは古事記にも詳細な情報が載っていない、いわゆる欠史八代とされており日本史で言うところの弥生時代の最後あたりまでは存在していなかったという説が有力です。
縄文時代と弥生時代の違い
縄文時代と弥生時代。
同じような時代と思われがちなのですが、実はこの二つの時代には大きな違いがありました。
縄文時代から弥生時代へ
紀元前400年頃になると当時中国で行われていた稲作が朝鮮半島を通り、日本に伝来することになります。
稲作が伝わった初期の頃はこれまでの生活のサブ的なものとして行われていましたが、時代が経つにつれて稲作を中心とした生活へと変わっていき、さらに朝鮮半島から鉄技術や優れた土器の製造方法などが伝わるようになると縄文時代から弥生時代へと変わっていきました。
ちなみに、寒すぎてお米が全く育たない北海道では縄文時代の文化がそのまま継続される続縄文文化が、沖縄では漁業を中心とした生活が継続され貝塚文化という独自の文化が発達することになります。
縄文人と弥生人の違い
縄文時代の日本人は骨格を分析してみると平均身長が約150〜160センチでかなりの筋肉質だと言われています。これは肉や木の実を中心とした食生活があったから。また、顔はほりが深く二重まぶたで唇が厚い特徴がありました。
しかし、平均寿命は幼児の死亡率が高かったことから大体14.9歳とされており40歳まで生きていたらかなり長生きだとされていました。
一方で弥生時代の日本人はほりが浅く、一重まぶたで唇が薄い今の日本人のような顔つきだったと言われています。
これは弥生時代に入って稲作が伝来し米中心の食生活になったからとされています。
縄文時代と弥生時代の決定的な違い
縄文時代と弥生時代の決定的な違いはやはり土器の性質と稲作でした。
縄文時代の晩期ごろから稲作が伝来されたと言われていますが、本格的に稲作が行われ始めるようになった弥生時代には田んぼを効率的に耕せるよう鉄製品が朝鮮半島から伝わり、米や田んぼを持つ人と持たない人の間に格差が生まれるようになります。
しかし、そうなると米や田を巡って集落ごとで争いが起こり始めます。最終的に残った集落がクニとして統治を行うようになり、今の国と同じシステムが形成されていきました。
また、縄文時代は土器を作る技術があまり発達していなかったために非常に壊れやすいこと、装飾がかなり施されていたことが特徴でしたが、弥生時代の土器は朝鮮半島からの技術を取り入れ薄いながらも壊れにくい土器を作れるようになり、装飾がほとんどなく実用的なものへと進化を遂げることになります。
縄文時代から弥生時代に移っていった時期はいまだにはっきりとはしていませんが、このように縄文時代と弥生時代には決定的な違いが存在していました。
縄文時代まとめ
以上の様に、縄文時代になると人間の生活は一気に現代的なものに変わりました。
食糧の種類が増え、料理をするようになり、移動生活は定住生活に変わり、道具が進化することで丈夫な家を建てるようになり、さらには海を渡り、離れた土地とも交易をする…。
争いが起こらず、自然のめぐみを大切にしながら自給自足の生活を送っている縄文時代は、今の日本とは全く違う文化でしたが、日本人の文明が生まれたとも言える時代なのです。
[参考書籍]
ナビゲーター日本史B 1 原子・古代~南北朝(山川出版 曾田康範)
[参考サイト]
Wikipedia 縄文時代
大学受験の日本史を極めるブログ 縄文文化の”6区分”、縄文土器についてわかりやすく。
大学受験の日本史を極めるブログ 縄文時代の「漁労」についてわかりやすく。骨角器って?
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