日本人のルーツ。日本人の祖先は、どこから来たのか?

日本人の祖先のルーツ。日本人は、どこから来たのか?

一般的には統一民族だと思われている日本人。

確かに、大きな捉え方としては、ほぼ共通した文化を営んでいるため、この認識は間違いではありません。

しかし、歴史的、地理的にみると、日本人のルーツは、複数のルートから形成されたことが分かります。

ここでは、その詳細を見ていきましょう。

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もともといた説

1980年代までは、日本人の祖先は旧石器時代以前からもともと日本列島におり、原人から新人を経て縄文人になったという説が主流でした。しかし、現在この説は説得力を失いつつあります。

なぜなら、近年のDNAの解析技術が進化したことで、世界中の遺跡から出た人骨などの分析が深く進んだ結果、全人類の起源となる生き物はアフリカから発生し、その子孫が世界中に分散して個別に進化していったことが分かったからです。

しかし、最古の日本人がいつごろ現在の日本列島に当たる場所に起こったのかは、まだはっきりと分かってはいません。

ただ、多くのヒントが残されているので、そこから大体の予測を立てることはできます。

最近まで、日本列島とユーラシア大陸は約500万年前まで陸続きだったと考えられてきました。

そのあと、数十万年のスパンで、地球の平均気温が暑くなったり、寒くなったりを繰り返し、そのたびに海面が上下しました。

その都度、日本列島と大陸は何度かくっついたり、離れたりを繰り返したと推測されていたのです。

しかし、近年の研究では、最も海面の高さが低かった時期でも、対馬海峡(九州と朝鮮半島を隔てている海峡)や津軽海峡(本州と北海道を隔てている海峡)には水が満ちており、陸続きではなかったことが分かってきました(北海道とその北にある樺太、さらにその西方にあるユーラシア大陸は陸続きだったとする説が有力です)。

一方、2005年からの発掘調査で、栃木県にある高原山黒曜石原産地遺跡群(たかはらやまこくようせきげんさんちいせきぐん)から、約4万年前に採掘されたとみられる黒曜石が大量に発見されました。

黒曜石はガラスとよく似た岩石で、割ると鋭い断面になることから、古くから世界各地でナイフや鏃(やじり)、槍の先として広く使用されていたものです。

この遺跡は、人類が徒歩では登りにくいはずの標高約1500メートルもの高さの場所にあります。このような場所で人類が大規模な発掘作業を行っていたこと、またここから掘り出されたと思われる黒曜石が、長野県や静岡県にある別の遺跡から見つかっていることなどから、当時において広い範囲で物資の運搬網が出来上がっていたことも分かってきて、注目が集まっています。

現状では、上記の発見が日本列島で最も古い人類の活動の痕跡であり、このころ日本列島で生活していた人類が、狭義の日本人の祖先(源日本人)だと考えることができます。

また、1946年に、群馬県にある岩宿(いわじゅく)遺跡において、関東ローム層という4-3万年前の地層から、磨製石器(ませいせっき)が発見されています。そのあと、日本全国の約80か所の遺跡でも、同じ年代の地層から総計数万点の磨製石器が見つかったのです。

旧石器時代において、人類は世界中で石器(岩石を加工してつくる道具)を使用していました。まず単純に石を砕いて破片にしたものが打製石器(打製石器)、それを磨いて切れ味をよくしたものが磨製石器(ませいせっき)と呼ばれます。

打製石器は石を割るだけなので、現代のサルの一部も似たものを作れることが確認されていますが、手の構造上、磨製石器は人類しか作れないと考えられています。このため、磨製石器を作ることは、人類固有のモノづくりの第一歩なのです。

歴史上の順番としては、まず人類が何らかのきっかけで岩石の破片を打製石器として使い初め、そのあと工夫して磨製石器を生み出したのです。

岩宿遺跡の発見から70年以上がたっていますが、現時点において世界中の同年代の地層からは、磨製石器は見つかっていません。

各地域の最古の磨製石器の出土状況は、オーストリア 約2万6000年前、オーストラリア:約2万5000年前、中国:約1万5000年前、朝鮮半島:約7000年前となっています。

このため現時点では、日本列島にいた人類が、格段に早い時期から磨製石器を使い始めたと考えられています。

紀元前14000年~紀元前800年位までの時期、源日本人の人口は東日本を中心に、約2万~26万人の間で増えたり減ったりを繰り返しながら、ゆっくりと新しい暮らしを創出していきました。

この時期は地球の平均気温が激しく上下しており、その都度生態系が変わることで食糧事情が変動したため、人口に大きく影響したと考えられています。

この時代のものとして、主に東日本において、青森県にある三内丸山遺跡、東京都にある大森貝塚などの大規模な集落遺跡が見つかっています。

近年の調査で、これらの集落では数千人の人々が住み、デザイン性のある土器や石器などの工作物を用いた、世界的に見ても極めて先進的な暮らしを営んでいたことが分かっています。

大学教授の竹田恒泰氏は、朝鮮半島南部において、日本と同様の形態の縄文土器や土偶が、日本より遅れた時期の地層から出土しているため、「縄文日本人の一部が朝鮮半島南部に移住して生活様式を広め、そのあと北方の狩猟民や中国人と混血して形成された者たちのうち一部が、逆に日本列島に戻ってきて渡来人と呼ばれた」と主張しています。

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北から来た説

先述のように、旧石器時代の一時期、北海道とユーラシア大陸は陸続きだったと考えられています。そのため、日本人の祖先はユーラシア大陸から、北方ルートを徒歩で経由して日本に移動してきたと考える研究者がいるのです。

しかし、確証となる発掘物や文献が少ないため、北方からどの程度人類が移動してきたのか、または移動してこなかったのかをはっきりと説明できないのが現状です。

ただし、アイヌ部族が話していた言葉に、オホーツク海沿岸や樺太地域の言語と共通点がみられるため、源日本人の起源とは別に、中世以降に北方の狩猟民族が北海道に移住してアイヌ部族となった、と主張する人もいます。

アイヌ部族は現在、日本人と統合していますので、このルートもまた、日本人を形成した一派としてとらえることができます。

半島から来た説

紀元前600年~だいたい7世紀の飛鳥時代ごろまで、中国、朝鮮半島から多数の移民が数度に分けて、転居してきたと考えられています。

古代の一時期において、日本が朝鮮半島南部に強い影響力を持ち、相互に人の往来があったのは事実です。多数派ではないものの、半島から多くの人々が移転してきたことを示す資料は多く見つかっています。

彼らの一部は大和朝廷に取り立てられ、秦氏(はたうじ)や東漢氏(やまとのあやうじ)、西文(かわちのふみうじ)などの氏族となり、官僚として過ごしたのですが、大多数の者は金属加工や建築土木、動物の皮革加工を行う特殊な職工でした。彼らは年月とともに源日本人と混血を繰り返しながら、全国に拡散していきました。

平安時代の初め、朝廷の交換であった菅原道真の提言で、中国大陸との文化交流のための正式な使者であった遣唐使(けんとうし)が廃止され、以降数世紀の間は、列島外からの人の来訪はほとんどなかったと考えられています。

しかし、中世以降、平清盛や足利義満が行ったような中国大陸との大規模な貿易、また日本と朝鮮の間の近海に出没した海賊や運搬業者の登場により、散発的ながら、列島外から移住する人々はいたようです。

1555年、広島の戦国大名、毛利元就(もうりもとなり)が山口の有力武将である陶隆房(すえたかふさ)と戦った際(厳島の戦い)、『ガン』と呼ばれる朝鮮半島出身の海賊集団が毛利軍に協力し、その勝利に貢献しました。

『ガン』の棟梁だった者は毛利家の家臣として取り立てられた上に、『岸』という名字を与えられ、地方代官として日本に定住しました。日本の総理大臣を務めた岸信介氏は、この岸家の子孫だとされています。

中国から来た説

1980-2000年代まで、朝鮮半島から転居してきた者たちが、日本に稲作を伝えたと考えられてきました。

しかし、近年の研究で、中国大陸南部:長江流域で主に栽培されているコメと、日本で育てられているコメの遺伝情報に共通点が見つかったことから、古代の中国人の一部が、何らかの方法で直接日本に移動して拡散した、という考え方があります。

3世紀ごろ、中国大陸では始皇帝という恐ろしい人物が秦(しん)という統一王朝を運営していました。

彼は強烈な独裁者として知られ、自分の意に沿わない人々を大量に虐殺する一方、自身が永遠に中国を支配できるよう、不老長寿の薬を求めて情報を集めていたのです。

始皇帝の部下だった徐福(じょふく)という男はこれを利用して、「海の向こうの島で長寿の妙薬があるという伝説があるので、探しに参りたい」と始皇帝に上申して船を用意してもらい、近親者や一族郎党数千名を連れて出発。そのまま逃亡した、という伝説が残されています。

日本各地に、徐福一族が流れ着いて定住したという言い伝えのある場所が存在するため、これらも「中国からの移民が日本人を形成した」という考えを支える根拠となっています。

その一方で、歴史研究家の小名木善行氏は、逆に「日本列島の人々が先に稲作を始めて、彼らの一部が中国南部に引っ越してそれを伝えた」とする説を提唱しています。

今後、これらの考察が練り直され、歴史教科書の記述が大きく変わるかもしれません。

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南方から来た説

人相学的に、日本人の中にも、地黒で唇が厚く、筋肉が固いといった身体的特徴を持つ人々が沢山います。

彼らは、東南アジアなど南方にある国々の住民とよく似ているのです。

そのため、日本人の祖先は、台湾やフィリピン、または環太平洋の島々から、舟を使って海流経由で日本に移り住んだ、と考える学者も多くいます。

たしかに地理的には、日本の南岸には黒潮と呼ばれる強い海流が流れており、それに乗ってしまえば、遠洋から日本列島に近づくことはできそうです。

しかし、船舶技術が未発達な古代において、舟で数百~数千キロ離れた別の島に向かうのは命がけの行動です。そのため、当時においてどの範囲まで海上移動ができていたのか、という根拠が求められています。

数年前から、日本の大学教授のチームが、原始的な丸木舟を使って台湾から沖縄県の島まで渡るというプロジェクトを進めています。この実証が成功すれば、新しい展開が見られるかもしれません。

その他

1966 年に奈良県の古代遺跡から出土した木簡には、「波斯(はし=ペルシャの意)」という字が書かれていました。専門家は、当時の日本政府にペルシャ人(イラン人)の官僚がいたことを表している、と述べたそうです。

ペルシャはシルクロードの通り道でもあったので、ペルシャに住んでいた者たちの一部が、シルクロード経由で中国、さらに朝鮮半島を移動して、最終的に日本列島に到着した可能性が高いとされています。

「日本」の国号
古墳時代から飛鳥時代にかけて、大和朝廷が徐々に九州、四国、東北以外の本州をほぼ統一していきましたが、当時その勢力圏は中国から「倭(わ)」と呼ばれていました。

その後、奈良時代に天武天皇が初めて国号(国の名前)を「日本」と名乗り始め、701年、持統天皇の治世において、朝廷は正式にこれを定めて中国にも認めさせました。この頃には、外国からの人の流入もほぼ落ち着いていたため、日本列島に住む人々が「日本人」と呼ばれるようになっていくのです。

まとめ

ここまで、日本人のルーツについて、様々な説があることを紹介しました、しかし、どの話も状況証拠や推論に基づくものであり、確定している訳ではありません。

現時点で最も可能性が高いのは、遅くとも旧石器時代以前から、源日本人らしき人々が居住しており、そのあと南方や中国大陸、朝鮮半島、北方など様々なルートから異民族が流入し、徐々にまとまりながら発展したのが広い意味での日本人、ということになりそうです。

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