壬申の乱一覧

壬申の乱とは?原因は?天皇や場所、時代背景をわかりやすく解説

第35代皇極天皇の時代、蘇我氏宗家を滅ぼす乙巳の変を起こした中大兄皇子は、乙巳の変以降、第36代の孝徳天皇、・第37代斉明天皇の皇太子として大化の改新を進めました。そして、斉明天皇が崩御してから7年後に第38代天智天皇として即位しますが、その4年後に病に倒れてしまい、崩御してしまいました。天智天皇が即位した当時の皇位承継は、親子より兄弟が優先されていたため、天皇の弟の大海人皇子が皇太弟として次期天皇になるよう定められていましたが、弟の大海人皇子は辞退し、その数年後に出家しました。そのため、天智天皇の死後には天智天皇の子であった大友皇子が政権を担うようになります。しかし、その後、叔父の大海人皇子と甥の大友皇子との間で皇位継承の争いが起こります。この叔父と甥との間で起こった皇位継承の内乱は、日本古代の内乱の中でも最大規模を誇るもので、この内乱を壬申の乱と呼びます。

飛鳥時代 壬申の乱、天武天皇・持統天皇による中央集権化、藤原京の造営・遷都

663年の白村江の敗戦を機に中大兄皇子による唐や新羅に対する国防の強化、近江への遷都、天智天皇の即位、日本最初の令(りょう) の近江令や戸籍(庚午年籍)を作り中央集権体制を進めていきますが、671年に天智天皇が崩御すると、翌年の672年に朝廷内で争いが起きます。天智天皇の子である大友皇子(おおとものみこ)と天智天皇の弟の大海人皇子(おおあまのみこ)との皇位継承をめぐる戦いです(壬申の乱(じんしんのらん))。この争いは、各地の兵力を結集した大海人皇子の勝利に終わり、大海人皇子は都を飛鳥に戻し、天武天皇として即位します。そして、天皇の権力を強め、天皇中心の中央集権国家へと推し進めます。ここでは、壬申の乱、天武天皇及びその意志を引き継いだ持統天皇による中央集権化のための事業・政策について紹介していきます。